犬のいる光景
森戸の浜での、プーリーの散歩コースはすでに幾度も紹介したが、今回はそれを少し変えてみた。
いつもなら、マンションから浜に降りて、長い森戸海岸の北の外れ、石の堤防まで歩き、堤防に腰を掛けて、プーリーに水を飲ませたりしていると、そこに大きなシェパードのストライプ、スーちゃんを連れたみゆきさんがやってきて、ふたりと2匹は浜の南端まで歩く。
ときには森戸神社まで、季節によっては海の家に立ち寄ったりして、浜を戻り、もとの堤防へ。
これがだいたい日に2回。
こんな私たちの姿は、浜の景色の一部になっているようで、たまにどちらかひと組だけだったりすると、
「どうしたんですか」
と心配するひとも少なくない。
だが、今回はこのルーティンを大きく変えた。
変更の理由はスーちゃんにある。
2、3日前から、スーちゃんの歩くようすが少しおかしい。
左の後脚を軽く引きずるようにする。
痛がっている様子もないし、ちゃんと歩くときもあるのだが、見慣れている私たちにとっては、やはり変だ。
こうしたことに関して楽天家のみゆきさんは、ちょっと疲れているだけかな、程度にしか感じていないようだったが、
「もうトシなんだから、医者に見せたほうがいいよ。レントゲンを撮ってもらいなさい。それでなんともなかったら安心でしょう」
との私の言葉を、最近は素直に聞くようになってくれている。
その日の午後、スーちゃんを車で獣医に連れて行った。
スーちゃんはもう12歳。
アメリカから日本にかけての16年、猫のミンミンを見ていた私には、
年老いたペットがいかにフラジャイルな存在であるかがよくわかる。
みゆきさんからメールが来た。
スーちゃんの左脚はやはりおかしい。骨や腱、筋肉に異常はないが、疲れが貯まっているようだ。
しばらく安静にしていましょう。散歩も、家の近所か、庭の中だけ。浜を歩くのはやめなさい。
「なんですって」
というみゆきさんは、しょんぼりしていた。
だから、私とプーリーはこちらからスーちゃんの家に遊びに行くことにしたのだった。
プ-リーを連れてこようか、という話はかなり前からあった。
最近は、私もみゆきさんも、どちらかの家、部屋で過ごすことが多い。
ランチ、ディナーを一緒にしたり、ビール、ワインを飲みながら語り合ったり、映画を観たり、音楽を聴いたり、長時間に及ぶことも少なくない。
つまり、どちらかの犬が必ず長い留守番を強いられている。
それが可哀想なので、犬たちも一緒に過ごせるようにしよう。
といっても私のワンルームマンションは、スーちゃんには窮屈すぎるから、プーリーが訪ねることになる。
その準備は進んでいた。
スーちゃんの家の中には、トイレがない。大も小も外でしかしない。
広い庭付きの家を借りたのはそのためでもあったそうで、雨の日などはちょっと庭に出す程度だ。
ところがプーリーは、外でもするが部屋でもする。
プーリーが来るとなれば、トイレは絶対必要。
そこでインターネットを駆使して、いまと同じ型のトイレを取り寄せ、組み立て、トイレシーツはうちから運んだ。
普段は別室にしまっておいて、プーリーが来るときだけ、ピアノや大テーブルなどがあるリビングルームに設置。
こうしていつでもプーリーが訪ねて来られるようにしているので、今回スーちゃんの静養はまたとないチャンスでもあった。
堤防でひと休みして立ち上がったとき、プーリーは喜んで浜を戻ろうとしたが、リードが逆方向に引かれるので、え? という表情をする。
だが、もともと好奇心のかたまりなので、知らないコースでも大喜び。私をかえってリードするようにぐいぐい進む。
情緒ある漁師町の一画を抜け、バス通りを渡り、さらに住宅地を歩くと、スーちゃんの家、ではなくみゆきさんの家がある。
みゆきさんと知り合ったころ、「ミユキハウス」という瀟洒なピアノ教室、ピアノスタジオがある、と紹介した記憶があるが、3年余り前にアメリカから帰ってきて、湘南でいろいろ物件を探していてこの家に行き当たり、たちまち気に入って借りたという。
前面に芝生が敷き詰められ、数多くの庭木が建ち並ぶ「ミユキハウス」。プーリーは気に入ってくれるでしょうか。
と「ビホー・アフター」の気分でフェンスドアを開ける。
プーリーは、なんと少しのためらいもなく芝生を進み、知っているはずもないのに玄関の引きドアに手をかける。
みゆきさんとスーちゃんが現れるが、いきなり家の中では心配なので、まず庭先で遊ばせて、慣らしてからにすることに。
なんの心配も不安もなかった。
プーリーは、リードなしで外を動き回れるのは初めてなので、大喜びで芝を走り、庭木の匂い、というかスーちゃんの匂いなのだろうが、嗅ぎまわり、建物の裏手まで丁寧に、幾度も探検し、マーキングを重ねる。
スーちゃんも一緒に動いていたが、やはり疲れるのか、芝生に坐り込む。
そんな2匹を眺めながら、私とみゆきさんは、玄関先に出した椅子でハーブティ。
絵に描いたような光景ではないか。いくつか蚊に刺されはしたが。
30分ほどして家の中に入れた。
プーリーは、リビングルームからキッチン、中廊下などを、ショートトラック走者のように、だっだっ、と走り回り、調子に乗って2階まで階段を駆け上って探検したのはいいが、降りられなくなって、情けない声で呼ぶ。
スーちゃんはもうプーリーには構わず、いつものソファ-に横たわっている。やはり疲れたのかな。
みゆきさんがいった。
「ドゥーちゃんも来ればよかったのにね」
それで、将来の家族が揃うのに、という口ぶりだった。
ドゥージーはいま、ハルホテルにいる。
ハルホテル。つまりペットシッターの治美さんが、葉山の隣、秋谷に1年余り前にオープンした施設で、ペットシッターとしての前進基地であり、お預かり犬たちの宿泊、散歩の場であり、治美さん自身の5匹の飼い犬の家でもある。
そこ大所帯にわがドゥージーは、新しく家族として加わった。
つまり、治美さんチの犬になったのだ。
ドゥージーは、夏の終わりころから歩かなくなった。
散歩に出かけるときには大喜びするのだが、浜に出ると歩くのを嫌がる。
2、3メートルも歩くと、砂に尻をつけて坐りこみ、悲しげな眼で私を見る。
プーリーも一緒に連れてプーリーは元気いっぱい、走り回り、飛び回り、ぐんぐん引いていこうとする。
ドゥージーは動かない。
甘えているのか、わがままなのか、と無理に引っ張ろうとすると、尻をつけたまま引きずられる。
それなら、ドゥージーの散歩はなしにしようかと思うのだが、プーリーを連れだそうとしたときの大喜びを見ると、置いて出るのは忍びない。
出ると、歩かない。
そのころは、ドゥージーを抱いて、プーリーに引かれて歩くという、異常なスタイルだった。
浜で一緒になった治美さんがいった。
「テリーさん、ドゥーちゃんはおかしいですよ。しかも、かなり悪化しています」
専門家のいうことだ。すぐに獣医に連れて行ってもらうことにした。
治美さんは、さまざまな設備が備わっている大きな獣医病院にドゥージーを連れて行って、半日がかりの診察、いくつかの検査を受けさせてくれた。
いつも陽気で張り切り屋さんの治美さんが、珍しく深刻な口調でいった。
ドゥージーはかなり進んだ腰椎、椎間板ヘルニア、
ダックスフントの持病のようなもので、どの犬でもまず逃れられない病いだが、ドゥージーの場合それがさらに進行している。
治療法は3つあり、ひとつは手術。4週間ほどで退院できるが、費用は大きい。
2番目は、薬とマッサージだが、これは回復まで数か月という長期になり、その間、動き回らないように小さなケージに入れ、トイレは抱き上げてさせ、食事もケージの中。散歩、お遊びは禁止。
3番目は、車椅子。これを選ぶと、一生そのままになる。
どうしようか、といわれて、私たちは考え込んでしまった。
お金のことは仕方がない。
でも、
「ドゥーちゃんの身体にメスを入れるなんて」
可哀想で、と、みゆきさんは早くも涙ぐむ。
一生車椅子も可哀想だ。
快癒率、というものを聞いてみると、手術も薬もさほど変わりはないという。問題は寝たきりのターム。
こうして私たちは、薬とマッサージによる治療を選んだ。
だが、そうするとドゥージーはプーリーと一緒には住めない。
私も、そんなドゥージーを、プーリーと同時に面倒を見ることはできない。
「わたしが、うちのワンコたちと一緒に面倒を見ます」
治美さんが引き受けてくれて、そのときからドゥージーはハルホテルの住人(?)になった。
治美さんからは、しばしば写真が送られてくる。
小さなケージで丸くなっているドゥージー。
腰を引きずりながら、ほかの犬たちに囲まれているドゥージー。
小さなテラスに出してもらっても、庭に降りることができずにいるドゥージー。
それでも、思ったより順調に回復している。
しばらく前に、みゆきさんと一緒にドゥージーに会いに行った。
10匹近くの犬たちが吠えまくり、騒ぎまくるハルホテルの奥の部屋のケージにドゥージーは入っており、私たちを見つけて目を輝かせるドゥージーのために、治美さんがケージドアを開けてくれた。
ドゥージーは長い体をくねらせ、尻尾を大きく振り、腰を引きずり、ころんと転び、必死になって私のもとに。
ソファーに坐って抱き上げると、ドゥージーは私の胸を昇り、顔を舐めまくる。
うれしい。
そして散々舐めまくり、甘えまくり、私の太腿をベッドにして居眠りを始めた。
「安心したんですね」
ハルミホテルに頼んでよかった。つくづくそう思った。
あの後、治美さんからメールと写真が来た。
ドゥージーがほかの犬たちと一緒に、秋谷の荒崎公園に出かけた写真だった。
見たところ。しっかり歩いている。ちゃんと立っている。
スーちゃんの家に来て、2時間たった。
みゆきさんが軽いランチを作ってくれた。
スーちゃんはソファーで。
プーリーは床の敷物で。
静かに眠っている。
私たちは、こういう日常になっていくのだろうか。