ごめんね、ドゥージー
相変わらずの引きこもり生活を続けている。
なにもしたくないし、どこにも行きたくない。
だからといつて、しょんぼり、めそめそと暮らしているのでは決してなく,未紗の祭壇の前で、未紗の写真を見上げて、未紗の心に話しかけ、語り合い、して過ごす日々は、なかなか楽しく、うれしいときの流れでもある。
外出は、日課になっている犬の散歩のほかには、たまに近くに買い物に行くことや、ごくごく稀に近所の店に食事を兼ねて飲みに行く程度。
といっても、夏の間は散歩のついでに海の家・ノアノアに寄ってビールを少々、というのはあったし、海の家が閉まってからは、浜辺近くの小さなカフェ、エスメラルダのテラスにプーリーを床に、ドゥージーを抱いて、やはりビールか、ワイン、という時間を週に2、3回は持っているので、決して本格的な引きこもりでもない。
これでわかって貰えただろうが、いまの私の暮らしのほとんどすべてが、プーリーとドゥージー、この2匹の犬と共にある。
未紗がまだ自宅か施設にいたころには、私のこれからは、未紗とこの2匹のためだけにある、と決めていたし、未紗がいなくなってからは、この2匹とだけ生きていこうと考えている。
だから私の一見引きこもりは、犬たちから見れば、ずっと私が一緒にいてくれる、ことに他ならないのだ。考えてみると、昨日も一昨日も、私は24時間、完全に2匹と共にいた。
2匹は、ことにドゥージーは、私とペットシッターにしか心を許していないので、いつも私がそばにいてくれることは、なによりもうれしいことではないだろうか。
そのせいもあってか、以前は活発というよりも暴れん坊といったほうがいいプーリーにプレッシャーを感じていたのか、一歩引いた感じで、小さくなって生きていたようだったのが、最近は大食なプーリーに勝るとも劣らない旺盛な食欲を見せるし、プーリーがおやつを横取りしようとすれば、低い声でウーと威嚇して退散させるまでにもなっている。
私の引きこもりをなによりも喜んでいるのは、ドゥージーなのだろう。
だが、それなのに、私はドゥージーに対してひどい仕打ちをしてしまった。やってはいけないことをしてしまった。
台風の名残の爆弾低気圧とかが暴れた翌日の夜のことだ。
散歩の後のエスメラルダ、を終えて帰ってきて、シャワーを浴びてゆっくり飲み直し。
大きめのトレーに缶ビールとグラスを乗せ、ベッドの上に置き、チーズなどを取りに冷蔵庫に立ったとき、自分の食べ物でも持ってきてくれると勘違いしたらしいドゥージーが、いつもの大喜び。尻尾を大きく振りながらのピョンピョン・ジャンプを始めたのだ。しかも、ベッドの上で。
当然缶ビールも弾み、あっという間に中身をぶちまけた。ベッドの上で。
「なにをやってるんだ!」
私は慌てて、ドゥージーの頭を、ピシリかポカリか、叩いた。
思わず強く叩いてしまったようだ。
キャン、と声をあげて、ドゥージーはベッドの端に飛んで丸くなった。
あ、まずい、とは思ったが、ベッドのほうが先だ。
ベッドカバー、上掛けシーツ、敷シーツ、その下のベッドパッド。そこにまでビールはしみ込んでいたので、全部一緒にバサッーと剥いで床に落とす。そのときドゥージーも一緒に落ちたようだ。
シーツ類を洗面室に叩き込み、戻って新しくベッドメイキング。
厄介な作業を続けながら見ると、ドゥージーは部屋の隅の、自分たちのトイレの中、まだきれいなままのシーツの上で、丸くなっていた。なるべく小さくなろうとするかのように、尻尾を巻き込み、そして怯えた目で私を見ていた。また叩かれるのではないか、と、その目は怖がっていた。
作業を終え、私はそんなドゥージーを抱き上げてベッドに運び、抱きしめて頭と身体を撫でた。撫で続けた。
「ごめんね、ドゥーちゃん、ごめんね、ドゥーちゃん」
謝り続けた。
ドゥージーは、身体を固くしている。
それは、許してやるもんか、といっているようでもあった。
どうして俺は、俺って奴は。
未紗とのことを思い出していた。
ずいぶん前にも書いたと思うが、まだゴヨーテーにいたころだった。
すでに身体の動きが不自由になりかけていた未紗が、コーヒーを淹れようとして失敗し、テーブルばかりか床にもコーヒーをまき散らしたことがあった。
その場に戻ってきた私は、茫然としている未紗を、
「なにやってるんだ!」
と、ドゥージーと同じように怒鳴りつけ、コーヒーメーカーをキッチンの流しに運び、キッチンペーパーやクロスの布巾を総動員して床やテーブルのコーヒーを拭いた。
そして未紗は、というと、その場に立ち尽くしたまま、
「ごめんね。テリーにコーヒー、淹れてあげようと思ったの。ごめんね」
呟いていた。
なんども、
「ごめんね」
と、呟いていた。
いま、ドゥージーに謝り続ける私は、あのときの未紗にも謝り続けているのだ。
「ごめんね、ドゥーちゃん」
「ごめんね、未紗」
小さな部屋で、未紗の祭壇に語りかけるとき、いくつもいくつもの謝罪の言葉が、心の中の口をつく。
次の日も、ドゥージーの私を見る目に、わずかなためらい、恐れのようなものがあったが、それはやがて消え、いまでは以前のようにべったりと甘えてくるし、抱いて、抱いて、と足もとにまとわりつくし、ピョンピョン・ジャンプもする。