集中治療室へ
私にとっては一喜一憂。未紗にとっては一進一退。
いや、そんな軽い言葉ではいい表せない、ここ2、3日の私たちであった。
なにしろ命がけ。ぎりぎりの切羽詰った病状での動きだったので、緊張感の途切れないままの、ぐったりと疲れるときの流れ。
その日の朝、病室を訪れた私を待っていたのは、静かな未紗の寝姿だった。
左腕には点滴のチューブが取り付けられたままだが、それがもう少しも気にならないほどに、未紗は慣れてしまっている。無意識のうちに諦めているといったほうがいいのかもしれない。
「おい、大丈夫か」
小さく声をかけて入っていった私を見るでもなく、身動きひとつしない。眠っているのかと思って覗き込むと、いくらか蒼ざめた表情で、ぼんやりと、天井に動かない視線を向けている。
心ここにあらず、ではなく、心そのものがなくなっている。そんな目の色だった。
だがある企てを持ってきた私、かたわらの椅子に坐ってしばしのときを過ごしたのち、バッグから小さなCDプレーヤーを取り出した。外部に音が漏れることのない、イヤーフォン、ヘッドフォンで音楽などを楽しむ型の小型機器。
それに1枚のCDをセットし、自分の耳で確かめてから、枕の頭を持ち上げて、未紗の耳に当ててやる。
未紗は、抗うでもなく、逆らうでもなく、じっとしている。
そんな未紗のようすを、私は黙って見守る。
ある大きな期待が渦巻いて、私は胸を高鳴らせていた。
1週間ほど前に観たテレビ番組が、こんな話を紹介していた。
アメリカのある老人ホームというか介護施設で、ひとつの実験が行われた。
認知症を患って、もう何年ものあいだ、失われた意識の中をさまよい、空白の時間を送り続けていた年老いた患者の耳に、ある音楽を録音したプレーヤーのヘッドフォンを当てる。
音楽は、その患者がまだ若く、青春の真っただ中にいたと思える時代に流行したもの。その黒人の女性患者の耳には、1930年代の、例えばナッシュビルサウンドなどが流れ入っていたのだろうか。
映像は、カットされ、編集されたであろうから、時間の進行はわからないが、やがてその女性患者の表情は見る見るうちに明るさ、輝きを増し、生き生きとしてきたのだ。
そして次のシーンで、女性患者はなんと立ち上がって、両手を上げ、身体を振って踊りだしたではないか。昔、若かった時代に自分がそうして、ボーイフレンドたちと踊っていたように。これまでの長い年月、歩くことも笑うことも忘れていたのに。
青春時代に夢中になって踊った、唄った音楽を聴くことは、そのひとの失われた生命力を呼び覚ます。遠い過去の情熱に連れ戻してくれる。
そんなテレビ番組だった。
未紗にもやってみよう。
私が未紗の耳に、未紗の心に送り込んだのは、ユーミンの曲だった。
結婚前の未紗がどんな音楽に夢中になっていたかはよく知らない。ピアノも声楽もやっていたので、もしかしたらクラシック音楽だったかもしれないし、ユーミンは青春というより少しのちの時代のものだったかもしれないが、一般のひとたちよりもうんと長く“若い心”、青春の中にいた私たちなので、少々の時差はあっても“青春の音楽”といってもいいはずだ。
そして私個人にとっても、ユーミンは特別な存在でもあった。
世田谷の近くに住んでいたことはともかくとして、いくつもの雑誌のページにユーミンを招いて対談なりインタビューなりを掲載。
「あら、ここでも佐山さんなの?」
とユーミンが呆れるほどの頻度だった。
FM放送での対談もあったし、ユーミンの曲をフューチャーしたFM番組を制作したことも、幾度かはあった。音楽的な内容なら若い作家の山川健一で、生き方、遊びなどなら佐山透、という時代が確かにあったのだ。
だからユーミンは、私と未紗にとって“特別な音楽”といえるのだ。
ホームのカラオケ大会でも、
「未紗さんのユーミン、素敵でしたよ」
といってくれたスタッフもいた。
ヘッドフォンを当てられた未紗は、しばらくはなにもないかのように黙って天井を見ていた。表情にも視線にも動きも変化もない。
やっぱり駄目か。テレビ番組など、やはりこんなものか。
あーあ、という感じでヘッドフォンを外しかけた私だったが、そのときある小さな変化が、未紗の上に起こった。
なんの表情もなかった未紗が、小さく瞬いた。おや?といった目をしたのだ。
なにかに気が付いた。
そして、探るように、探すように、視線をゆっくりと動かす。
もう、見ているようで見ていない、あの力のない目ではない。明らかになにかを追い求めていた。
私には聞こえないが、CDは何曲目に移っていたろうか。
未紗の唇がかすかに動いた。
なにかをいっている。
ぶっ、ぶっ、ぶっ。
小さな、声というより、音が漏れている。
うーっ、うんうん、うーっ、うんうん。
未紗は、唄っていた。ユーミンに合わせて、口ずさんでいた。
蒼ざめていた顔にも、なにかしら明るさが、生気が戻ってきている。
うれしそうだ、楽しそうだ、と感じるのは、私の先走り、期待のしすぎだろうが、期待以上の成果に涙ぐみそうになる私だった。
ユーミンとの“合唱”で力を取り戻した未紗にすっかり安心した私は、再び眠りに入ったその横で、長い時間本を読んで過ごし、夕刻を迎えた。
看護師が食事のトレイを持って入ってくる。
「ご飯ですよ。お昼、ほとんどと食べなかったから、お腹すいたでしょう」
昼食は、1割食といわれる少なさだったそうだ。
「流動食なんですけど、うまく飲み込めずに喉にかかってしまうんです。苦しむのでほとんど吸引しなければならないんです」
嚥下障害、というらしい。食事だけならまだしも、薬も飲めないので、治療に影響が出る、ともいう。
しかし、その夕食は違っていた。
未紗はいつになく微笑むような表情で、私にいった。
「なにかおいしいもの食べに行きましょうよ」
よく聞き取れなかったが、そういったようだ。
「え? お腹すいてるの?」
未紗は、目だけで頷いた。
「お腹、すいたの?」
看護師が引き取った。
「そうでしょう。お腹すいたでしょう。いまからごはん、食べましょうね」
幼児にいうような言葉に、未紗は微笑を向けた。
私は、お願いします、と部屋を出た。面会時間はとっくに過ぎていた。
犬たちのいない、寒々とした部屋に帰った私は、それでもいつになく安心していた。
はらはら、どきどき、緊張を強いられ続けた未紗だったが、今日は大丈夫だった。音楽の力は大きかった。
こうして少しずつでも快方に向かってくれればいいんだが。
少しの時間ソファで休んで、再び外に出た。
未紗の食事を思い出し、私も空腹を感じてきたのだ。
部屋のすぐ前の“菊水亭”。最近は2匹の犬もいないので、ひとりこの店で夕食をとることが多い。
顔馴染みの店のひとたち、常連客たちが迎えてくれた。
2時間はたったときだった。カウンターのスマートフォンがぶるぶると揺れた。
大病院の名が浮かんでいる。
声を潜めて、電話に出た。
「すぐにいらしてください」
電話の声が緊迫を表す。
「どうしたんですか」
「奥さまが、急変しました。とにかく、大至急、いらしてください」
「いま、もう飲んでいるんだけど」
「タクシーでもなんでも。すぐに」
いったん部屋に駆け戻って、冷たい水で顔を洗い、何度も何度も、喉の奥の奥までうがいをいし、幾度も深呼吸をして、飛び出した。
酒気帯び、いや、もう飲酒運転であった。
30分の道のり、多くの車とすれ違ったし、その中に2台ほどのパトカーもあったはずだ。ステアリングを固く握りしめ、スピードを一定に保つように緊張し、ようやく病院にとどりついた。
駐車場ではなく、正面玄関の前に車を止め、緊急入り口から駆け込んだ。
6階のいつもの病室に上がると、ふたりの看護師が待ち構えていた。
「3階に移っています。ご案内します」
いま上がってきたエレベーターで、3階に戻る。
そこには数人の男女看護師が集まっていた。
集中治療室。
「奥さまは、夕食後、呼吸困難、心肺停止の症状を起こして、ここに運び込まれました。心臓はいくらか回復しましたが、呼吸は」
現在、人工呼吸器を厳重に装着しているという。
未紗の戦いは、新たな段階に入った。