巡る季節の中で
黄昏のしおさい公園に行ってきた。
しおさい公園は、御用邸のすぐ近くにあり、もともとは御用邸の庭園であったところだが、そこで「竹灯り」が行われていたのだ。
「竹灯り」の説明もしなければならないかな。
太く、長い竹筒を模したオブジェの中にいくつものろうそくの灯りを入れ、それを幾本も並べて夜の公園を灯す。
10年ほど前に九州のどこかで始まったものらしいが、よさこい祭りが全国に広がっていったように、ゆっくりと伝播し、湘南にまで及んできたという。
さほど広くない公園の、池を巡る径に沿って幾本もの竹灯りが、暮れなずむ気配の中、暖かな光をぼうと浮かび上がらせ、池の水面に柔らかく漂う。
多くのひとがこれを見に訪れているはずだが、薄闇に紛れて喧騒は感じられない。
「季節が移ってるね」
「ゆっくりだけど」
「確実にね」
「そうね。止まっていないわね」
淡い光の群れを眺め、私たちはしばらくのときを過ごしていた。
葉山芸術祭はまもなく幕を閉じる。
そのおしまい近くのメインイベントは、爽やかな五月晴れのもと行われた、
東伏見宮別邸サロンコンサート
「CLASSICAL and JAZZY」と銘打たれたこのコンサートは、その名の通り、クラシックピアノの演奏とジャズサックスとピアノの協奏の2部構成で、両方のピアノがこの文章に幾度も登場しているプローみゆきさん。
最初はみゆきさんのピアン演奏だけで催す予定だったが、みゆきさんのアイディアで友人のサックス奏者、山口三平さんにも加わってもらってのユニークな形になっている。
みゆきさんとのお付き合いもあって、かなり早い段階から見学させてもらっているが、以前芸能界にいささか入り込んでいた私にとっても、こうした催しものには初めてのことが多い。
まずは会場に常設されているピアノの調子、性格を知るために行った練習。
みゆきさんがピアノに向かい、私が離れた椅子で聴く。
結果はひどいものだった。
ピアノがあまりにも壁に寄せられていたためと、広いサロンにはなにもなくがらんとしていたために、まるで銭湯でピアノを弾いているようで、音響効果などというものではない。
それに、
「あのおかしなカーテンは外そう」
「あの絵もいらないわね」
「ピアノを壁から離そうか」
そしてなによりも、
「ピアノの調律!」
することが多く、かえって気分は高まる。
数日後、サックスの山口さんも駆け付けてきて、ピアノの調律が行われた。
みゆきさんがいつも頼んでいる調律師は、なんと2時間近くもかけて丁寧に、熱心に仕事をこなしていく。
調律など、すぐそばで見るのは初めての私にも、大いに勉強になり、参考にもなった時間だった。
その結果は歴然たるもので、調律後のみゆきさん、山口さんの協奏実験では、3人とも、えーっ、と声を上げるほど、ピアノは完全に生まれ代わっていた。
「楽しみだね」
「うまくいくわね」
うなずき合ったものだった。
五月晴れの当日、予想を超えるひとたちがやってきた。
広い、といってもお屋敷内のサロンなので、定員はせいぜい70人。いっぱいに詰め込んでも80人、という場所になんと100人を超える客が、まさに押し寄せたのだ。
明らかにプロモーション・ミスだが、それでも客たちはさほど不満を漏らさず、入りきれないひとたちは、音だけはよく聞こえる隣のパーティルームの椅子で聴いてくれることになった。
大きくあけ放った窓からは、心地よい風が流れいって、マリア像に飾られた大きな花むれの甘い香りがサロンに広がり、コンサートは始まった。
華やかな美貌を瀟洒な黒いドレスに包んで、プローみゆきさんのピアノが始まる。
ドビュッシー 「子供の領分」より
「映像」より
シューベルト ヘラー 「鱒」
シンディング 「春のささやき」
ゴドフスキー 「古きウィーン」
みゆきさんみずからの曲紹介、解説で進行する。
満員の客たちに、新鮮で、そして満ち足りた笑顔が広がっていく。
よかった。客席のうしろで、私も大きくうなずいていた。
第二部は、今度は軽やかに、花のようなドレスに着替えたみゆきさんと、アメリカ西海岸風なシャツ姿の山口さんが並んで立ち、ジャズというより、誰もが知っているライトでポピュラーな音楽の数々。
始まる直前に、みゆきさんが急に背後のドアから消え、すぐに戻ってきて、
「眼鏡を忘れてきちゃいました」
しっかり笑いを取る。
やるね、みゆきさん。
A列車で行こう
ワッツ・ニュー
いつか王子様が
優雅な幽霊のラグ
アメイジング・グレイス
この「アメイジング・グレイス」で、私は思わず涙ぐんでしまった。誰も見ていなかったろうな。
そして、昔、私も自分のラジオ番組で何度も使った、ディズニー映画『ピノキオ』から、
星に願いを
アンコールに「アメイジング・グレイス」を繰り返し、コンサートは終わった。
誰もが笑顔だった。
拍手はいつまでも。
みゆきさんに花束を渡す列は、サロンのうしろ端まで続き。
みゆきさんと並んで写真を撮るのも順番待ち。
別邸サロンに静けさが戻ってきたのは、1時間あまりのちのことだった。
身の回りの片づけ。みゆきさんが自宅から運んできた小物の回収。
たくさんの花束の香りは、控室に溢れかえる。
その花束を車に運び込むために、幾度も駐車場に往復する私を見て、サロンのスタッフの女性が尋ねた。
「ご主人ですか?」
いや、いや、いや。私がいい返そうとすると、近くにいたみゆきさんが代わって答えた。
「恋人です」
翌日の夜、私たちはあるイタリアン・レストランにいた。
BREZZA di MARE
(ブレッツァ・ディ・マーレ 海のそよ風)
葉山の住宅街のさなかに新しく開かれたおしゃれな店。
イタリアンのヌーベル・キュジーヌ(イタリア語なら、クッチーナ・ノベッラ)。お洒落で美しい皿が続く。ワインリストも、目を見張るものがある。
こんな人気店なのに、昨日と打って変わった肌寒さ。しかも月曜の夜。
ディナーのあいだ中、店は私たちふたりだけのものだった。
スプマンテのグラスを合わせ、
「よかったね。おめでとう」
「ありがとう」
季節がまたひとつ、移った。