ハスラーがやってきた
電話の主は、少々わざとらしいが明るく弾んだ声で、元気いっぱいにいった。
「大変お待たせしました。お申込みのお車が間もなくアップするとの連絡が工場から届きました。来週にはご納車できることになりました」
そして、重ねて、
「本当にお待たせしました」
どうだ、うれしいだろう、といいたい気持ちが伝わってくるようだった。
きょとんとする、とはこういう気分のときだろうか。
なにをいっているんだ? なんのこと?
相手は、
「詳しくは改めてお電話します」
といって電話を切ったが、私が頷いたのはしばらくたってからのことだった。
ああ、そうか。あのことか。
すっかり忘れていた。
そういえばそんな買い物をしたっけ。
昨年の年末から年始にかけてのことだったと思う。
つけっぱなしのテレビだったか、見ていた番組の中だったか、ある車のコマーシャルが映し出されていた。
オレンジ色の派手なワンボックスカーが、どこかスキー場のゲレンデ下のようなところに駐められており、周囲を多くの若者たちが囲んでいる。それぞれが色鮮やかなスキーウェア。とは表現が古いな。ゲレンデファッション、でも古いか。ま、そのような要するに冬のレジャーウエアに身を包み、笑い合い、動き回っている。
車の後部ハッチバックドアは大きく跳ね上げられ、そこに積まれたいくつかの遊び道具。スノーボードやスキー板、大きなキャンバスバッグ。車のうしろで、いましもバーベキューが始まりそうなので、その設備一式もこの車で運んできたに違いないし、少し離れた雪の上にいるコーギー犬もやはり一緒にやってきたはずだ。
さほど大きくない車なのに、このコマーシャルはその抜群の搭載力を見せつけているようだった。
コマーシャルの若者たちは元気に賑やかに動き回り、多分『マンボ・バカーン』の曲に載せてナレーターが叫ぶ。
「遊べる軽、ハスラー誕生!」
ほう、と思った。
こんな車が出たのか。え? 軽自動車?
面白そうな車だな。こんな車で葉山の海岸を走り回ったら面白いかもしれないな。いま、特にリゾート地では軽自動車がブーになっているというし。
そのときはそれでおしまいだった。
もっと知りたいとも、調べてみて、もしよかったら買い換えようかな、とは少しも思わなかった。
第一そのころの私は、車にさほどの関心がなくなっていたのだ。
未紗が施設に入って半年近くは、毎日のように車で会いにいっていたが、歩いて5分のシーサイド葉山に拠点を移してから、車に乗る機会は大幅に減った。使うのは、犬たちの大量の食品を買いに横須賀かコストコに行くときか、その犬たちを2週に1回のシャンプーに連れていくとき。そして私自身が遠くの医者に出かけるとき。その程度だった。
あとは、シーサイド葉山のすぐ近くにバス停があり、それで逗子まで出れば横浜にも東京にも電車で楽に行ける。第一グリーン車で缶ビールという楽しみさえある。
バスと電車、という、これまで馴染みの薄かった移動法を私は知り、楽しんでさえいたのだ。
あのコマーシャルが頭から消えて当然だろう。
季節が移って3月も終わりのころ。2度に渡った大雪も忘れ、そろそろ夏のことを考えるころになったころ、私の目にあのコマーシャルが飛び込んできた。
“パパラスマンボ、ママラスマンボ(Papa loves MAMBO)”
「遊べる軽、ハスラー」だ。
今度はウインターリゾートではなく、どこかカリブを思い抱かせる、パームツリー並ぶビーチ。
車の周りに若い男女が群れているのには変わりがないが、若者たちは揃ってビーチ、マリーンファッション。ビキニであったりサーフスーツであったり。
車のトランクルームにも当然、サーフボードやパドルが積まれている。
やはり、というか、前より楽しそうだな、と感じたのは、私が雪山やスノーリゾートよりビーチ、マリーンおじさんだったからだろう。ビキニのお嬢さんもよかったし。
偶然が続いた。
数日のち、三浦海岸のあるショップにほしいものがあって出かけた。もちろん車は3年前に購入したBMWミニクーパー。
佐原インターを出てすぐのところで、私の目にあの車の大きな写真が飛び込んできたのだ。
すっかりおなじみになった気分の「遊べる軽、ハスラー」。
HUSTLAR
横須賀スズキモーターズの販売店だった。
時間に余裕があったこともあり、そこの駐車場に乗り入れ、店のオートドアを入った。
ハスラーのことをもっと教えて。
というとセールスマンは、
「乗ってみますか」
こともなげにいう。
横腹にHUSTLARと大書した試乗車だが、1台だけあるというのだ。
セールスマンを隣に乗せて、佐原近辺を30分ばかり走り回った。
セールスマンは、助手席であれやこれや説明する。
オフロードでどうのこうの。
急坂でどうのこうの。
高速でどうのこうの。
ほとんど聞いていなかった。それよりも、
なかなかいいじゃないか。
色はともかくとして、こんな車で葉山の海岸を。
店に戻って私は、出されたコーヒーで少し頭を覚ましてからいった。
「これ、頂戴」
本当にそういったわけではないよ。
いまのミニクーパーをどのくらいで下取るか、など10分ほどかけて事細かく尋ね、確認して、冷静にいったのだ。
「契約しましょう」
ありがとうございます、といってからセールスマンは思いがけない言葉を吐いた。
「いまがご契約の一番いいときですからね」
4月1日から消費税が上がるので、その前にと駆け込み予約する客が多いという。そのために、納車までかなりの期間お待たせしているともいうのだ。
それを聞いて、私の心はさーっと冷めていくのであった
「それでは、この話はなしにしようよ。消費税の騒ぎがおったら、改めて来ますよ」
セールスマンは不思議な顔をしていたが、そのまま私は店を出た。
佐原のスズキの販売店を再訪したのは、消費税が新しくなった直後、4月初旬だった。
契約に来たよ、というと先日と同じセールスマンは笑顔で迎えたものの、なにか釈然としない表情でもあった。
このあいだの条件でいいから、契約すると告げ、その場でいくつかの書類を書いてもらい署名、捺印。持っていただけの手付金を払った。
契約成立。
そして私は、そのとき初めて大きな過ちに気付いたのであった。
「ご注文のハスラーは、オレンジの次に人気が高いものでして、お手元にお届けできるのは半年余り先ということになります」
えーっ! という話ではないか。
消費税前の駆け込み注文で納期が遅れているというから、消費税後だったらすぐにでも届けられると思ったのに。
私のこの考え、間違っているでしょうか。そうですか。やはり、私が馬鹿だったんですか。そうですか。
いつものような衝動買いの後悔に似た思いを抱いて帰宅した私だったが、いやな思いは引きずらない。やがてこの1件は、心から消え去った。
「お待たせしました」ハスラーは、昨日私のものになった。
銀行から残金を振り込み、ミニクーパーで佐原に出かけ、ハスラーで帰ってきた。
駐車場で車から出ると、掃除をしていた管理人が驚いたようにいう。
「どうしたんですか。ずいぶん若い車ですね。修理に出した代車ですか」
いや、と答える。
「買ったの」
この新しいハスラー。まだ乗っていない。