へぇ、そうだったのか
前回、芦屋に住む古い友人、加藤美由紀さんのことを書いたが、そのすぐ後に美由紀さんから長いメールが来た。
なにか文句でもあるのかな、と少し心配しながら読んでみると、未紗と美由紀さんの、昔から続いていた「付き合いの形」が綴られていた。
日本にいたころには、まったくといっていいほど交流のなかった美由紀さんなので、私が知らないことばかりだったのは当然だが、なんでも知っていると思っていた未紗に関することで、私の知らないことがかくも沢山あったのには驚かざるをえない。
どこかのテレビ番組ではないが、
「へぇ、そうだったのか」
の連続だった。
美由紀さんにとって未紗がいかに大切なひとだったか。そして未紗が、これほどまでなんでも美由紀さんに話していたか。それがよくわかったので、改めて美由紀さんの了解のもと、そのメールを紹介することにする。
メールは、芦屋、西宮、神戸に竜巻警報が出ていて、ひとり息子のユーくんの学校が休校になったなどとの報告のあと、すぐに未紗との話に移っている。
『未紗ちゃんが「プチセブン」の副編集長だったとき、オンワードの広告タイアップの仕事で、電通雑誌部の小学館担当として出会いました。
未紗ちゃんのファッションセンスの素晴らしさで、小さな広告タイアップは思いがけないほどのビッグプロジェクトと化し、電通としてはこんな大きな仕事を女子社員に任せてはおけないと、わたしが外されそうになったとき、未紗ちゃんが電通に掛け合ってくれて、グアムでファッションショーを開くほどの大成功をさせることができました。』
未紗がファッションの仕事で、グアムやハワイにしばしば出張していたことはもちろん知っていたが、そこにこんなエピソードが秘められていたとは。
こうした出会いののち、未紗と美由紀さんの付き合いはさらに続き、深まってゆく。
『わたしが、電通をやめて料理研究家になりたい、と相談したときには、流行の先端のレストランや面白い趣向のお店などに連れて行って下さいました。
いつしか未紗ちゃんとふたりで会うようになり、市ヶ谷のお花屋さんのカフェでランチをしたりしました。
いろんな話をしました。
だから、テリーさんとの出会いからのエピソードはみーんな知っていますよ。』
ほんとかよ。未紗は、自分たちのことはほとんどなにもしゃべらないタイプだと思っていたのに、実はおしゃべり女だったのか。
『わたしがイギリス、イタリア、ロシア、タイ、アメリカと、料理学校に行ったり、修業したりしているあいだも、もし困ったことがあったらと、現地のお友達の連絡先などを教えてくれました。
日本に戻って仕事を始めるときも、未紗ちゃんはすぐに「加藤美由紀」という料理研究家のプランニングをしてくれて、原稿を書けるほうがいいから、勉強しなさい。構成もできるほうがいいし、簡単なラフも書けるほうがいいよ。電通雑誌部で関わったこともプラスしていくように、とコーチ、アドヴァイスをくれました。
「女性セブン」の契約編集者の名刺も作ってくれ、お店取材や料理取材のページをわたしのために用意してくれ、雑誌の料理ページの作り方、原稿の書きかたも教えてくれました。』
へぇ、そうだったのか。
そういえばそのころ未紗が、妙にわたしの書くものを熱心に読んでいたようだ。わたしに興味があったのではなく、美由紀さんにノウハウを伝えようとしていたのか。
面白いエピソードも紹介している。
『一度、お小遣い稼ぎをしない?とヤクルトの広告タイアップに、わたしをモデルとして使ってくれたこともあります。
レオタードや、寝る前の悩ましいガウンなどを着せられて、有名なカメラマンの撮影で、素敵な洋館でのロケ。
未紗ちゃんがあれやこれや、スタイリストが集めた衣装から選んでくれて、ポーズまでつけてくれました。
恥ずかしかったけれど楽しかった。あのころは痩せていてよかった。』
へぇ、そうだったのか。
そののちも、
『未紗ちゃんは、いつもわたしを見守ってくれました。
頑張れ、と応援してくれました。
本が出るたび、テレビに出るたび、本当に喜んでくれました。』
さらに今度は、私たちがアメリカに渡ることになり、
『未紗ちゃんが小学館をやめてアメリカに行く話は、当時世田谷にあった私の実家まで来てくださって、ダビデとレオ(当時の美由紀さんの飼い犬)と多摩川べりを散歩しながら聞きました。
そのころは100万部雑誌「女性セブン」の副編集長でしたから、そんな立場をなげうってまでどうして? と尋ねると、未紗ちゃんは、尊敬できて、本や美術の話ができるひとは、テリーさんよりほかにいない。そのテリーさんが、青木功のシニア転向に付き合う形でアメリカに行くから、一緒について行くの、といっていました。
そして、テリーさんが一生ふたりで遊んで暮らせるだけのお金も用意してくれたから、とも。
おふたりがアメリカに行ってからも、未紗ちゃんはお手紙で向こうの暮らしぶりや、遊びぶりを教えてくれました。』
と続き、前回書いたように、美由紀さん一行がパームスプリングスの私たちの家に来たときのことに。
「アメリカにいらしてからも、テリーさんが雑誌などに書いているものを読んで、どんなひとなのかなと、想像していました。
ゴルフ雑誌にも書いていらしたので、ゴルフ体育会系オヤジかな、と思ったりもしましたが、パームスプリングスでお会いしてその想像は吹き飛びました。
あとで同行したみんなで、そういえば未紗ちゃんは面食いだったわね、と大いに盛り上がったものです。
そしてそのとき未紗ちゃんが、こちらではお手伝いさんでも雇ってくれると思っていたのに、自分でやりなさいっていうのよっていうのよ、といっていたのも思い出します。
でも、料理も掃除もほとんどテリーさんがやっていたようですね。
未紗ちゃんは、テリーさんのいうこと、することになにも疑問を持たないほど尊敬していて、大好きだったんだな、と思います。
わたしたち3人も、テリーさんを尊敬していて、大大ファンですよ。』
長いメールはこうして閉じられているが、このあとのこと、私たちが帰国してからのことは、当然私も知っていることで、前回私が書いたことでもあるから、と思ったのだろう。
それにしても、未紗がこんなにおしゃべりで、話を「盛る」ひとだとは知らなかった。いや、話を「盛った」のは美由紀さんだったのかな。