三寒四温
もういささか古い話になってしまっているが、わが町葉山のおバカな町会議員が覚醒剤で逮捕された。
この話を「エスメラルダ」ですると、スーちゃんといたみゆきさんが、
「えーっ! わたしそのひとに投票したかもしれない」
翌日、みゆきさんが1票を投じたのは別の候補者だったことがわかって、やれやれとなったのだが、
「こんなことで葉山の町が全国的に話題になるなんていやねぇ」
と、いかにも井戸端会議風な結論に達したものだ。
だが、考えてみると、この事件は連日のワイドショーなどで大きく取り上げられているが、実際に葉山に住んでいるひとたちが関心を払っているとか、話題にしているということはない。
そんなこともあったな。バカな奴はどこにでもいるものだ。
と、そんな程度なのだ。
つまり、葉山という町が日本の他の場所のひとから見て、いかに特別なところか、ということ。葉山のひとが感じている以上にその存在を気にしているかなのだろう。
葉山といえば、静かで、おしゃれで、気品があって、豊かで、優雅で。
そう思われているのではないか。
中に住んでいると、決してそうとはいえない部分も多々あるのだが、やはりそうかもしれないなという自負もないではない。
少々鼻持ちならないエリート意識。
それはあながち悪いものではないのではないかな。
そんな葉山の町に、というより、森戸海岸のひとたち。もっといえば犬の散歩などで知り合ったイヌトモたち。さらにいえば「エスメラルダ」などで日々出会っているひとたち。
そんな小さなコミュニティの中に、ちょっとした事件が立て続けに起こった。
私の部屋には、朝9時と午後4時、ペットシッターの治美さんがやってくる。
私と治美さんのふたりでプーリーとドゥージーを散歩させるのだが、その日の朝は治美さんだけではなく、娘のリサさんも一緒だった。
去年治美さんが自分のドッグホテルを立ち上げてから、リサさんが一緒に住んで母の仕事をヘルプしているのだが、このようにふたり連れだってやってきたことはない。
見ると治美さんは、左足首あたりをタオルかなにかで巻き、その上からスーパーの袋のようなもので大きく包んでいる。
「ゆうべ、足をひねってしまって歩けないんです。だから今回は娘に代わらせてください」
すみません、すみませんといい、痛いはずなのににこにこしているのが、このひとのいいところかおかしなところか。
痛めたのが左足でよかった、とリサさんを送ってきた車でそのまま病院に向かう治美さんを見送って、私たちは浜に出たのだが、リサさんの話によると、昨夜友人と食事に行き、その帰りにパンフレットなどを読んでいて店の階段を踏み外し、足首を「やっちゃった」らしい。
「仕事がうまくいき始めて、緊張感が薄れてきたんじゃないのか」
と、大人の意見をいっておいたのだが、夕方、再び来たリサさんの、
「2週間の安静と2週間の静養だそうです」
との報告を聞いて、ようやく大ごとになっているのを知ったのだった。
治美さんが抱えている「散歩犬」は私のところだけではもちろんない。毎日ではないにしても全部で10匹以上の犬を散歩させている。
そのほかに自分の犬も、ホテルの「お泊り犬」も何匹かいるので、「治美負傷事件」はまさに「不祥事」なのだ。
ホテルのことは、治美さんが足を引きずりながらでもなんとかしているようだが、散歩はそうはいかない。
私のところにもほかの家にも、リサさんや臨時の若い女性が向かい、必死に仕事をこなそうとしてくれているのだが、なにぶんにも慣れない仕事で、しかも扱いにくい犬もいるらしく、なかなか大変らしい。
仕事を頼んでいる客たちにとっても、治美さんのありがたさを改めて知ることになったできごとではあったようだ。
ある朝やってきたリサさんが、浜を歩きながらいった。
「このあとは、みゆきさんのところに行くんです」
驚いた。
「みゆきさんって、あのみゆきさん?」
昨日の昼間「エスメラルダ」で会ったばかりなのに。
「はい、スーちゃんのママです」
スーちゃんの散歩係は、常にみゆきさん自身だが。
「みゆきさんが足を悪くして歩けないから来てほしいって」
えーってものだよ。
リサさんがみゆきさんの家をよく知らないというので、うちの散歩のあと私がリサさんを連れてみゆきさんの家に行くことにした。みゆきさんのようすも知りたい。
だがその朝、みゆきさんは病院に行ったかで不在。私とリサさんがスーちゃんを歩かせることになったのだが、夕方になってから電話で詳しいことを知った。
前夜、食事の片づけをしていて、躓いたかよろけたかして、食卓の太い脚に右足を強くぶつけてしまったらしい。
「その夜は大したことはないと思って寝たんですけど、朝になってみると赤く大きく腫れていて、痛くて、痛くて」
それで治美さんにお願いした、というのだが、みゆきさん、酔っ払っていたんじゃないの。
その翌日から私の時間帯が変わった。
朝は、リサさんかほかの女性と、うちの2匹を連れて浜に出る。
帰って、2匹に餌を与えたり、掃除をしたり、メールチェック。
そのあと歩いてみゆきさんの家に。
伝い歩きしているみゆきさんからスーちゃんを預かって、再び浜に出る。
スーちゃんは、ママが家に残っているので行きたがらない。強い力で引き返そうとする。
それを、おやつをちらつかせながら騙しだまし。
浜に出るころには諦めたのか、私を思い出したのか、そばを歩いてくれるようになる。
浜を端から端までゆっくり歩き、そのあと「エスメラルダ」に立ち寄るのだが、ここにはいつも来ているので、スーちゃん、すっかり安心して、コーヒーを飲む私の足もとでお昼寝。
30分ほど休んで、再び浜を歩き、みゆきさんのもとに帰る。
そして「静養中」の美由紀さんと少しおしゃべりをして家に戻ると、しばらくして、リサさんか誰かが再びやってきて、午後の散歩。
このように、浜のご隠居としてはずいぶん忙しい日々になったのだが、私にとってはひとつの大きな楽しみが加わったことでもあった。
それは、散歩、「エスメラルダ」コーヒーのあと、スーちゃんを返しにいったあと、みゆきさんとのわずかの時間が持てたことだった。
ちょうど雛祭りだったときには、小さなひな人形が飾られていたし、なんとみゆきさんが私のための抹茶をたててくれたときもあった。
大昔の映画の話をしたり、アメリカでの日々の思い出を語り合ったり、静かで穏やかときの流れであった。
だがある日、そんなときを過ごして帰り、自分の2匹も歩かせ、まだ夕陽が暖かい時間だったので、ベランダに椅子を出してビールでも、と坐ったそのとき、浜の先になんとみゆきさんの姿があるではないか。スーちゃんを引いて悠然と歩いている。
みゆきさんは、ベランダのほうに近づいて歩きながら、私に向かって手を振り、先の方向を指さしている。
「エスメラルダ」に行きますよ、ということだ。
「テリーさんが帰ったあと、家の中や庭を歩き回ってみて、劇的に回復しているのがわかったの。だから追いかけてきちゃった」
葉山の、森戸の、日常がかえってきた。
もとの時間割に戻った。
だが、たった数日間だったが、スーちゃんを返した後に過ごした、あの短い時間。よかったな。
あとは治美さんの回復を待つだけ。
私は、いい老後を送っているようだ。