フォンデュな夜
みゆきさんが、またしても素敵な企画を立ててくれた。
エスメラルダのテーブルで、みゆきさんの故郷のひとつでもあるスイスのことを話しているとき、ふと思いついたようにいった。
「今度私の家で、フォンデュをしませんか」
断るわけがないではないか。
「喜んで!」
同席していた治美さんも、
「喜んで!」
こうして感動的な「フォンデュな夜」が実現したわけだ。
前回は「ホイリゲな夜」でオーストリアだったが、今回は「フォンデュな夜」でスイス。
ここんとこ、私にとって比較的遠かった国が急に近づいてくる。
ヨーロッパには数十回出かけているが、スイス、オーストリアにはあまり縁がなかった。どちらにも2、3回しか行っていないが、それでも、いやそれだからか、忘れられない思い出もある。
結婚したばかりのころだから、もう40年近くも前のことだ。
未紗の大学のクラスメートに、ドイツ人と結婚してフランクフルトに住んでいる女性がいた。
私たちがドイツの街々を巡る旅の中、未紗の友達に会うと、彼女が、
「一緒にスイスに行きませんか」
と誘う。
スイスのシャモニーに別荘を買う予定なので、その下見を兼ねて遊びに行こうと思っている、というのだ。
ふた組のカップルは、友達の夫のメルセデスで国境を越えた。私も運転を代わったが、なかなか快適なドライブだった。
シャモニーのホテルでひと休みした後、街のレストランに出かけた。
そこで初めて食べたのが、フォンデュ。白ワインで熱して溶かした各種チーズに、サイコロ状にカットしたパンを長いフォークに刺してまぶして食べる。
食べたことはないが、フォンデュにはこのようなチーズ・フォンデュと、熱したオイルに肉や根菜などを浸して食べるオイル・フォンデュがあると思い込んでいた私は、
「本当の、スイスのフォンデュは、チーズです。オイル・フォンデュというのは、外国のひとがもっといろいろなものを食べたくて作ったものです。フォンデュ・ブールギニヨンというので、フランスでしょうね」
店のひとに教えられて、うなずくばかり。
そうして初めてのフォンデュを楽しんでいたそんなとき、店にどやどやと団体客が入ってきた。ヨーロッパで団体客というと、ドイツ人か日本人に決まっている。そういわれていた時代だ。
案の定日本人たち。10人ほどいたかな。
彼らは私たちとは離れたテーブルに就いたが、狭い店なので話は筒抜け。どうやらフランス観光のあとスイスに寄り、この後イタリアに向かうようだ。
一行も私たち同様フォンデュを食べる。ずっと前から予約していたらしい。
賑やかにしゃべりながら食事を続けていたが、途中でチーズに浸すパンが不足してきたらしい。
中のひとりが、店のひとに向かって大声で叫んだ。
「スミマセーン。ココ、ノーパン。ノーパンでーす!」
恥ずかしい思いをしたのは、私たちだけだったようだ。
つまらない思い出だな。
その1年余りのち、私たちは世田谷に住んでいたが、それとは別に四谷にも部屋を借りていた。
仕事場、といってはいたが、実は週に1度ほど、あるひとと時間を過ごすための部屋。
いわゆるメンの割れている女性なので、部屋に入るときも出るときも別々。
その建物の1階にスイス料理のレストランがあった。エレベーターから直接行けるので、そこにだけは幾度か訪れた。柱の陰のテーブルで、ひっそりと食べたスイス料理は忘れない。フォンデュもありました。
さらに10年ほどのち、思いつきからハワイに家を買った。
ホノルルからいくらか離れた場所のちょっと気取った住宅街。カハラ地区というところのオープン感覚な平屋。
50歳になったら、仕事を極端に減らして海外に住もうと、ぼんやり考えていたので、その準備のつもりだった。
私ひとりが、取材のついでの家を探し、見つけ、契約した。
2か月ほどたって、未紗を連れて行った。俺たち、ここに住むんだよ、というわけだったが、そのとき初めてその家の周辺を歩いた。
家から数分歩いたところに、なんとスイス料理の店があるではないか。
「ハワイにきて、スイス料理はないでしょう」
という未紗の言葉で、そのときは入らなかったが、ここに暮らすようになると、幾度かは未紗とふたりでのスイス料理になるだろうな、と思って少々くすぐったい気分になるのだった。
結局、ハワイは島国なので、ペットの持ち込みが禁止されていることがわかり、その家は1度も住まずに売り払ってしまった。だからスイス・レストランにも行っていない。
あの店、まだあるだろうか。
みゆきさんちの「フォンデュな夜」。
「空腹だけを持ってきて」
ということだったが、そうはいかない。
キルシュというスイスのリキュールを、ネットで探して購入した。
サクランボの香りの、香ばしいが強い酒で、フォンデュには欠かせない。ビールなど冷たい飲み物では、胃の中でチーズが固まってしまうので、こうしたリキュールが合うそうだ。
これは、最初のシャモニーのレストランで仕入れた知識。そう「ノーパン」の店です。
それと、いつも葉山近辺を車で動き回っている治美さんに頼んで、いくつかのパン屋でバゲット数本を買ってきてもらった。
「なるべく皮の固いバゲットがいいわ」
というみゆきさんの注文も伝えた。
「フォンデュな夜」のメンバーは、みゆきさんを中心に、私、治美さん。そして、Iさんご夫妻。
東京に立派なマンションを持ち、その分野では名の知れたアパレルメーカーの経営者。夫人のYさんが葉山のマンションに住み、Iさんが週末にやってくるという夫妻。
定期的にパリに通うという優雅なふたりだが、私たちとはイヌトモ。アラン君という大きなゴールデンを買っていて、Yさんはエスメラルダの常連でもある。
この夜の5人は、こうして幾重にも重なった「お友達」だったのだ。私は、中でも新参者に近いが、食事前の歓迎音楽、ピアノ演奏の挨拶で、
「私の大事なお友達の皆さん。
といってくれたみゆきさんに、まず感謝。
みゆきさんが長い時間をかけてすり降してくれた大量のチーズは、エメンタール(Emmental)、グリュエール(Gruyer)、ティルスター(Tilstter)の3種。これが正統派だそうで、わざわざ東京まで買いに行ったという。
前菜は生ハムだったが、バラの形にいくつもまとめた赤いハムのあいだに、緑鮮やかなコーニッシュ。
「ケイパーではないの?」
私が知ったかぶりの、余計なひとことをいうと、
「スイスではコーニッシュです。ケイパーは使いません」
叱られちゃった。
スイスの話、フランスの話、イタリアの話。
「フォンデュな夜」は、和やかに盛り上がり、キルシュがおしゃべりと身体と心を温め、秋の終わりの夜は更けていく。
「スイスではね」
と、みゆきさんがいう。
「フォンデュのチーズの中にパンを落としてしまったひとは、罰として、男性は新しいお酒を1杯買うこと。女性は、隣の男性にキスをすることになっているんですよ」
素晴らしいルールだなぁ。
と思っていたら、みゆきさんが、あっ、と、パンを落としてしまったではないか。隣に座っている男性は?