蘇ったJAZZ
「ご一緒しませんか」
と誘われて、出かけることにした。
鎌倉のジャズクラブ「ダフネ(Daphne)」で素敵な演奏会が行われるという。
誘ってくれたのは、葉山に住むP ・みゆきさん。
この女性については紹介したい話がたくさんあるので、それはのちのこととして、いまはジャズ演奏会について進めよう。
といってもその前に少し。
未紗がいなくなってから、いや、未紗が私のもとに帰ってきてくれてから、というもの、極端に外出しなくなっている。
このことはもう幾度も書いたので、詳しく省略。犬の散歩以外にはほとんど外出しない引きこもり状態だ。
困ったことにその日常になんら違和感も寂しさも感じていない。引きこもって、安心しきっている。
そんな私を見るに見かねてか、食事や酒席に誘ってくれるもの好きなひとが幾人かいる。ペットシッターの山口治美さんもそのひとりで、私が誘いに乗らないときには、犬の散歩で一緒に歩くように促し、ペットシッターついでのじいさんシッター役も務めてくれる。
おかげで少しは健康的になったかな。
P・みゆきさんもそのひとり。知り合ってからさほどのときはたっていないが、浜辺のカフェ「エスメラルダ(Esmelarda)」でお互いに犬連れで同席したり,浜を一緒に歩いてくれたりする。
今回のお誘いもそのひとつだが、喜んで応じたのは、私自身,引きこもりに忸怩たるものを少しは感じていたからかもしれない。
というわけで、秋のある夜、バスと電車を乗り継いで、出かけました。
バスで15分、電車でひと駅。それなのに私にとって鎌倉は本当に久しぶりだ。
大昔、まだアメリカに移るはるか以前には、なにかと湘南に出かけていたし、帰国しても東京にいたころにも、しばしば湘南に遊んだものだった。
だが葉山に越してきて、いつでも簡単に行くことができるようになると、かえって鎌倉は遠くなった。葉山に、遊び場、見どころ、食べどころがあふれていたからかもしれないが、そこにきて未紗の症状が進み、入院、施設入りなどが重なると、鎌倉は完全に消えた。
私にとっての鎌倉は、だから3年ぶりともいえる。
鎌倉は変わっていなかった。駅前も、街なかも、小町通も、以前のままだった。夜にはいっていたので、昼間ほどのさんざめきはなかったが、温かい街灯のもと、かえってひそやかな情感を感じることができた。
みゆきさんと肩を並べて歩き、大通りと小町通りのあいだ、鳩サブレの小路を入った場所に「ダフネ」はあった。
建物の外から続く階段を上がって、重いドアを押す。
そこには外界と全く違った、別世界に入り込んだかの、濃密な光景と空気があふれていた。
店を埋め尽くすフロアいっぱいのテーブルにも、豊富な酒瓶を背景にしたカウンターにも、大勢の先客たちが開演を待っている。
不思議なことに若いひとは少なく、ほとんどが中年以上か、中には私とさして変わらない年ごろの客もいる。そしてその多くが多分夫婦だろう。
往年のジャズ愛好家たち。そんな雰囲気の客たちがまた、この場の時代離れな気配にうまく調和している。
そう。今夜の歌手、演奏家たちは、いずれもジャズ界のレジェンドともいわれるメンバーなのだ。
みゆきさんが早めの予約をしてくれていたおかげで、遅く来た私たちでも、ステージ前のいいテーブルに坐ることができた。
近くのテーブルの客たちの数人は、みゆきさんの知り合いらしく、私に紹介してくれる。
カリフォルニアに住んでいたころ、コンサートなどによくご一緒した方。
戦前からニューヨークにお住まいで、最近お帰りになったご夫妻。(戦前!)
この奥さんも、以前ジャズを歌ってステージに立っていらしたんですよ。
中に顔見知りのご夫妻がいた。誰だったかな。
考えているとみゆきさんが教えてくれた。
森戸海岸に住んでいらして、テリーさんと同じにフレンチ・ブルドッグをお飼いになって、、、。
思い出した。浜でしばしばすれ違うひとだった。
「こちら、葉山のテリーさん」
「はい。存じ上げてますよ」
イヌトモというのは、犬が一緒でないとわからないものだ。
そうこうするうちに、店内がすーっと暗くなり、代わってピアノ、ベース、ドラムスが並ぶステージが明るくなって、コンサートが始まる。
3人の演奏家が客席の中を通ってステージへ。
演奏前の口上は、ピアニスト。
自分も含めた3人の紹介を聞いて、私の心にざわめきが広がった。
凄いメンバーではないか。
ピアノ 青木広武
ベース 井島正雄
ドラムス 出口威信
そしてピアノの上にひとつ写真の額が立てられていて、その人物は、
ヤス岡山。
この7月に亡くなったそうだ。往年の名ドラマー、というより亡くなる直前までドラムを叩いていたという。
そして、いまのドラムス、出口威信はヤスの最後の弟子になるそうだ。この出口の名前だけは知らなかった。3人の中で圧倒的に若い。
ベースが先行する形で最初の演奏が始まった。
「りんご追分」!
聞きなれた美空ひばりのメロディが静かに響く。
りんご~の花びらが~
かぜ~に散ったよな~
だが、曲は転調、破調、変調を重ね、全く違う曲に。まさにこれはジャズだ。ニューヨークのブルーノートなどで聴いた、あのジャズだ。
そこにはもう美空ひばりはいない。
私たちをニューヨークに導いた曲は、やがて再び「りんご追分」に戻り、拍手と感嘆の中、静かに終えた。
この日のメイン、ボーカルは、細川綾子。
伝説の、ジャズシンガーのレジェンド。
年は私よりもいくつか上。戦後の進駐軍(!)キャンプで歌い、その後苦節を重ねながらアメリカに渡り、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど各地で成功。さらにはヨーロッパでも名を知られる「世界のあやこ」となった。
現在はサンフランシスコに住み、日本に帰るのは年に1、2回。
みゆきさんのカリフォルニア時代、しばしば聴きに行き、友達付き合いになったという。
細川あやこがステージに上がる。
想像していたよりずいぶん小柄な女性だ。街で見かけたら、ちょっとお洒落なおばあさん、といった感じだ。
だが、歌い始めるとその印象は激変する。
「Beyond the ocean」
「Jack the knife」
「Birth of Blues」
懐かしいスタンダード・ジャズが次々に溢れ出る。
なんという迫力。なんという包容力。なんという優しさ。
私だけではない。この店のすべての客が、細川あやこの世界に引き込まれていたはずだ。
いやぁ、来てよかった。
その昔、未紗と幾度も訪れたニューヨークのジャズクラブが蘇っていた。
P・みゆきさんのことは、次回に書く。