変わりゆく私
私とみゆきには、ふたつの住まいがある。
ひとつはいわゆる「ミユキハウス」。みゆきがアメリカから帰ってきて、私と知り合う前から住んでいたちょっとした広さの一軒家。
広いリビングダイニングには、みゆきの仕事であるグランドピアノが置かれ、通ってくる幾人もの生徒にピアノレッスンをしているし、年に2、3回はその生徒や家族たち30人ほどでの発表会も行われる。
結婚前の私たちも招かれて、みゆきのピアノ演奏を味わったのもこの部屋だった。
やがて結婚することになって、「ミユキハウス」の表札というか、名札は「佐山」に変わり、持ち主、借主は私に変わったが、みゆきの生活形態はほとんど変わっていない。
数こそ減ってはいるが、相変わらずピアノの生徒は通ってくるし、7月にはまた発表会も開くそうだ。
そしてもうひとつの住まいは、「ミユキハウス」から徒歩で5分ほど。私たちが勝手に「喜寿婚の浜」と名付け、そのタイトルで出版までした森戸海岸に直に面したマンション。
本来は別荘用のワンルームマンションだが、4年前から私がひとりで住んでいる。
なぜ結婚しても別々の場所で暮らしているのか、といえば、お互いが犬を飼っているから、というのが大きな理由だろう。
みゆきには、アメリカから連れて帰って来た大きなシェパード犬、ストライプことスーちゃん。13歳の老犬だ。
私にも、もう7歳半にもなるフレンチブルドッグのプーリーことプーがいて、そのために一緒の家に暮らすことができないのだ。
では別居に近いのかというと、まったく逆で、例えばひとつ家に暮らしている一般夫婦などより、共にいる時間ははるかに多い。
私を例にとろうか。
朝、プーと同じベッドで目を覚まし、ひとり朝食。
以前はサプリメント以外、まず朝食抜きが多かったのだが、結婚してからは割にしっかり食べる。
今朝は、具沢山の豚汁を温め直し、買い置きの納豆に梅干しを入れ、五目御飯を少々。日本人のアサメシだ。
この豚汁と五目御飯は、みゆきが作り置きしてくれたもの。
「テリーの身体は、わたしが護る」
といった約束を守り続けてくれている。
昼過ぎにはみゆきが車でやってくる。
ランチタイムだ。
その日によってサンドイッチだったり和風のお弁当だったりするが、みゆきも同じものを食べることもあるし、私が食べるのを見守っていることもある。
あるいは、私が「ミユキハウス」に往ってのランチもあるし、この辺りは臨機応変。
ルーを使わずにガラムマサラなどのスパイスから本格的に作ったカレーもあれば、前夜の残り物にさらにひと手間かけたヒルメシもある。
こうした昼のひとときのあと、それぞれがそれぞれの住まいでそれぞれの時間を過ごし、ちょっと出かけたりして、夕方にはこんどは「喜寿婚の浜」で、スーちゃん、プーと一緒に会う。
浜の北の端で待ち合わせ、南の端までふたりと2匹が並んで歩き、石の堤防やコンクリートブロックに坐っておしゃべりしたり、ときには浜のおしゃれなカフェ・レストラン「エスメラルダ」でビアグラスをカチリとしたりして夕方の散歩は終わる。
私のマンションの前で、じゃあね、と別れることもあるし、「ミユキハウス」近くまで送っていくこともあるが、これで私たちの一日が終わったわけではもちろんない。
ワンルームマンションにいったん帰って、メールチェックなどを済ませ、プーに食事を与え、シャワーをさっと浴びたりしてから、再び「ミユキハウス」。
夜の数時間はほとんどが「ミユキハウス」。みゆきが私の部屋に来るのは、映画を見るときくらいだ。
「ミユキハウス」での夕食には酒類がつきものだが、これまで大量に消費していたビールが極端に減った。
以前は、というより大昔から、
「主食はビールです」
といっていた私だし、みゆきもそんな私に付き合って飲んでいた。
葉山の一色に「大門酒店」という、一帯をカバーしている店があるが、そこからビールを配達してもらっている。
「テリーズ・バー」と「ミユキハウス」に、それぞれ500ミリリットルを5ケースずつ、月に一度ほど頼んでいたのだから、計算してみると、24×5。120本のロング缶が双方に届いていたのだ。我ながら呆れますね。
それが、このところ減っている。
「テリーズ・バー」の冷蔵庫横にまるで壁紙のように重ねられているビールの箱は、いつまでたっても減らないし、「ミユキハウス」の別室にも同じように積み重ねられているはずだ。
ビールを飲まないわけではないが、それでもふたり1本ずつで、あとみゆきはワインをグラス1杯。私は焼酎の水割りに変える。
なぜこんなことになったのか。
しばらく前、私は近くの「ホリスティック医院」を訪れた。
御用邸近くの家に住んでいたころには定期的に近くのクリニックに通っていたのだが、そのうち亡妻が入退院を繰り返したり、施設に入ったりと、いわゆる介護の日々になってからはまるで通わなくなった。
どうでもよくなったのだった。
そんな私が久しぶりにクリニックのドアを押したのは、みゆきの頼みによるものだった。
「ホリスティック」とは「全身の」といった意味で、診察、診断、投薬など、各々の不具合、症状に個別に対応するのではなく、全身、全臓器を総合的、相関的に診て対応する。
精神性を重く感じようとするみゆきらしい頼みだったが、私も、いまはひとりではないのだからという思いもあって出かけたのだった。
「ホリスティック」での診察は、いささか衝撃的であった。
肝機能が大きくダメージを受けている、というもの。
原因らしいものは、やはり酒の飲みすぎ。
「特にビールがいけません」
諸悪の根源はビールにあり、というのだ。
「まだ山のようにあるんですけど」
未練たっぷりにいう私に、物静かな女医はきっぱりという。
「売り払ってください」
そうはいってもねぇ。
飲むならビールではなく蒸留酒、といわれて、酒をやめなさいという言葉を恐れていた私はほっとしたのだが、
「でも、1升も飲んではだめですよ」
わかってますよ。
こうして、ビール少々、焼酎ほどほどの夜時間が続いているのだが、おかげにか偶然か、体調はいいようだ。
そんなある昼のことだ。
残り物のランチで、肉じゃが的なおかずと共にテーブルに出たのは、茶色く味付けられた2種類のご飯。混ぜご飯か、五穀米のような冷や飯で、
「どっちがいい?」
といわれてもわからない。
「こっちでいいよ」
手前にある茶碗を取って食べた。
ま、おいしかった。
無事に、というか、なんとなく食事を終えて、さて、となったときに、食器を片付けていたみゆきが、ふーん、とつぶやいた。
「そうか。テリーがうなぎのほうを食べたのね」
ガーン!ガーンガガーン!
私は、77年の人生で初めてうなぎを食べたのだ。
うなぎを食べたことがない。
子供のころ、家の食卓にうなぎが出ることはなかった。父が、あるいは母がうなぎ嫌いだったということではなく、そうした食習慣がなかったのだろう。
成人してからもうなぎは食べなかった。
食べたいとも思わなかったし、誘われることもなかった。
そうするうちに、自分はうなぎ嫌いなのだという確信が生まれたようだ。
食べたことがないので、なぜ嫌いなのかわからない。
どうして? ときかれると冗談めかして、
「プロポーションがいやだ」
などといっていたが、あなごは食べる。
夏の鱧(はも)を食べにわざわざ京都まで行く。
うなぎやの前は、息を止めて早足に通り過ぎていたが、いま思うとあの匂い、香りはタレや山椒のもので、うなぎそのものではなかった。
理由のないまま、うなぎ食べない人生を送ってきたのだった。
それがいま、
ガーン! ガーンガガーン!
この歳にしての、初体験!
「おいしかったでしょう」
うなずくしかない。
数日後、みゆきが、「ひつまぶし」というのか、うなぎのまぜご飯を作ってくれた。
私は、みゆきによって変わっていく。