新しい時代
前回「もういくつ寝ると」と書いたのが最後だったから、そうか、もう一か月近くお休みしている、というか、例によってさぼっている。
報告するようなできごともなかったから書かなかった。
というより、ほとんど、いや、まったくといっていいほどアルコール抜きの年末年始は、もう数十年間かつてなかったことなので、私自身驚き呆れ、我を失い、あれよ、あれよの期間だった。
へぇ、こんな俺もいるんだ。
驚くべき新発見。
三年目を迎えるみゆきとの暮らしにとっても、まさに新時代を迎えているといった気分で、みゆきは、酒を飲まない私を、
「これまでの中で最高のプレゼント」
と、おだて、励ましするが、私自身、なんとなく健康になった意識もある。
私の生き方の代表ともいえる「二日酔い」はまったく姿を消し、歩いているときのめまい、息切れ、倦怠感、ときには、なにをするにもあった「面倒くさい」感が、ほとんどなくなった。
同時に「いつ死んでもいい」感は、「あれ、俺、もう少し生きていくんかな」感に変わりつつある。
前にも書いたが、
「百パーセント健康であることへの気恥ずかしさ」
はやはり胸の底にはあるので、戸惑いながら日々を送っているこのごろだが、体の不調はないし、なによりいちばん大切なみゆきがこんな私を喜んでいるので、それならいいか、という気持ちにもなっている。
みゆきは、調子に乗って、
「わたしは百歳まで生きるつもりだから、テリーは百○○歳(詳しい数字は内緒だそうだ)まで生きなければいけないのよ」
と、悪魔のささやき。
そないに生きて、どないせぇっちゅうんや!
というわけで、この年末年始、なにごともなく過ぎました、といいたいところだが、そこはそれなりに、いくつかのできごとはあった。
まず、クリスマスのころから振り返ろうか。
クリスマスイブや当日は混みあうだろうから、と少し早めのふたりだけの「イブ」は、例年どおり「テリーズバー」のマンション一階の「ラ・プラージュ」。
ここは、プロポーズ指輪を渡したところでもあるし、結婚披露的なパーティを開いた場所でもあり、さらにはアニバーサリー(結婚記念日)のディナーも、という、私たちにとっては、出会い、語らい、決意の、「エスメラルダ」に匹敵する「聖地」。
幸いにして、というか、まだそそっかしい日時であったためか、ほかにはひとりの客もいない「ラ・プラージュ」で、田中シェフ自らのサーブを受け、百○○歳まで生きる私は大いに気恥ずかしかったのであります。
次の日の朝、プーリーを連れての散歩道で「ミユキハウス」に寄ると、みゆきママがプーリーのためのケーキ(リボンを飾った焼き芋)を用意してくれていて、プーリーにも、メリークリスマス。
本当のクリスマスイブは、「ミユキハウス」で、これもまたふたりきり。
娘のプリシラが贈ってくれたプレゼントや、近く開く予定だった「みゆきピアノ教室」の発表会用にも兼ねたクリスマスの飾りつけに囲まれて、百歳まで生きるみゆきは大いに微笑んでいたのであります。
年末ぎりぎり近くに予定していた発表会は、みゆきがなんと風邪をひいてしまい、散々迷った末に延期を決めた。
子供たちに感染してはいけないという配慮だったのだが、電話、ライン、メールで連絡したところ、子供たちや家族の中にも体調を崩しているひとが多く、みんなのためにお休みしましょうとなった。
というわけで、本当の年末年始は、私たちも静かにと、三十日、大みそかは別々。
みゆきは、正月休みで遊びに来たプリシラとふたり、のんびり休んでパジャマのまま過ごし、年明けに食べるおせちや雑煮を作ったり、要するに休んでいた。
私も私で、プーリーとふたり(?)、こちらも休んでいた。
大晦日は、今年は「紅白」に付き合わなくてもいいし、除夜の鐘も初詣でもパスできるので、安心してテレビ正月。
二夜連続のボクシング世界タイトル戦はもちろんだが、その裏でやっていた「懐かしの名画」、バート・ランカスター、カーク・ダグラスの『OK牧場の決闘』、アラン・ラッドの『シェーン』に、すっかりいい気分だった。
私たちの本当のお正月は、年明けの二日。
ようやくおせちを食べ、雑煮をつまみ、みゆきとプリシラがお屠蘇をたしなむ姿を眺め、ハッピー・ニュー・イヤーにボナネ。
そんな簡便正月の席に、ペットシッターの治美さんからライン写真が送られてきた。
新年のご挨拶と共に、そこには、ハルホテルにいる犬たちが神社の鳥居の下に勢ぞろいしている写真。
全員(全犬)正面を向いてお澄まししているが、その中にあのドゥージーの姿もあった。ハルホテルに移って二年経っているが、ドゥーもプーリーと同じ九歳になっている。
そうか。そうだったな。
感銘に浸っている私に、追いかけるようにもうひとつの写真。
昨年末、プーリーより二週遅れで誕生日を迎えたドゥージーが、お祝いのケーキを食べている。
白い帽子をかぶって、うれしそうに食べている。
治美さん、ありがとう。
おじさんは、ジーンとしちゃった。
このように、なにごともほとんどない静かな年末年始だったといいたいところだが、実はかつてないほどの大きなできごとがあったのだ。
みゆきの母、庸子が移ってきてくれた。
みゆきの母、つまりあの世界のピアニスト、マックス・エッガーの未亡人。
夫亡きあと、京都の北の静かなマンションにひとり暮らしていたが、亡夫のお弟子さんたちが入れ代わり立ち代わり遊びに、話し相手に、身の回りの世話に、と来てくれるものの、なにしろ高齢ではあるし、他人には頼めない用事もいくつかあり、そのたびにみゆきが駆けつける、という時期が続いていた。
それが、庸子に病気が重なったり、みゆきもそうそう足繁く京都に、とはいけない感じになったりして、そしてなによりもみゆきが私と結婚したことなどもあり、こちらに、葉山に呼び寄せることにしたのだ。
庸子も最初は、パパのお墓から離れたくない感じでためらっていたが、お互いのため、なによりもママのため、という長い説得でようやく腰を上げた。
葉山の、私たちの住まいにほど近いところに「アンコール」という施設がある。
いわゆる老人ホームではあるが、要介護の老人ばかりが集まる施設とは違い、「サ特住(サービス付き特別住宅)」といって、自分でなんでもできる健康体だが、ひとり、あるいは夫婦で、静かな環境で、安心して老後を送りたいという、余裕のあるひとたちが集う、いわゆる高級賃貸マンション。
経営者Aさんの家族が、かつて経営していた会社の広大な敷地を利用して、数年前に始めた施設だが、入居者のグレードの高さ、静かな品性などで、少々憧れの的のものになっている。
施設名でも感じられるように、このAさんは、以前は、いや、いまも女流声楽家として活躍しており、音楽関係者としてみゆきとも近づきになり、頼んで庸子の入居となった。
庸子の引っ越しのため、といっても、さほど広くもないマンションの片付け、いわゆる「断捨離」のため、秋から冬に掛けて、みゆきは幾度か京都を訪ね、そのたびに、
「たいへーん!」
と帰ってきた。
年配女性の共通した特性として、手放したくないもの、思い出の詰まったものがあまりにも多い。
なにしろ、マックス・エッガーの遺品なのだ。これは、私だって処分したくない。
母と娘の、小さなバトルもあったのかもしれない。
だが、それでも説得、納得、断念などの積み重ねののち、エッガー庸子は、わが葉山の新しい住人になった。
話にしか聞いていない私は、私にとって「義母」になるひとにいささかの不安、心配はあったのだが、なーに、案ずるより産むがやすし。
いいひとじゃないですか。
「アンコール」に到着した日には、もちろん片付けの手伝いに行ったが、私のこのブログをずっと読んでくれているというヨーコママ(これからは、こう書く)は、
「お酒をやめたんですってねぇ。偉いわねぇ。大変だったでしょう。偉いわねぇ」
私を安心させてくれた。
葉山に来てまずしなければいけないことは、主治医を決めること。診てもらうこと。
私とみゆきの掛かりつけ、「ホリスティック・クリニック」の女医先生のところには、みゆきのレッスンと重なっていたため、私が連れて行った。
車の乗り降りこそヘルプが必要だったが、あとはこちらがハラハラするほどすっすっと歩く。
女医さんとの話の中で、ヨーコママが毎朝バナナを一本、リンゴをひとつ食べているという。
「毎朝ひとつずつですか」
「そうですよ」
「それは食べすぎでしょう。カリウムの摂りすぎですよ」
そんなやり取りを、付き添いとして聞いていた私が、「バナナ一本にリンゴ一個は多いでしょう。明らかに食べすぎですよ」
と口を挟むと、
「あら、おかしいわねぇ。何年もずっとそうしてたのよ。食べ過ぎかしら。おかしいわねぇ」
歌うようにいう。
あとで女医先生、笑って、
「お母さんとテリーさんのお話、おかしいですね。掛け合い漫才みたい」
私たち、どうやらうまくやっていけそうだ。
延期していたピアノの発表会も、子供たちの冬休みが終わる前に無事開いた。
大成功だったそうだ。
新しく三人になった私たちの葉山生活、年末年始を無事に乗り越え、新たなる時代に入った。
だが、百○○歳までは長いな。
今日もみゆきは「アンコール」にヨーコママを訪ねた、パソコンの具合が悪いから見てくれ、ということだったが、部屋に入ると誰もいない。
テーブルに一枚のメモ。
「ママは、麻雀に行っています」だって。
階下の談話室では、ヨーコママが入居者のおじさん、お爺さん相手に、脇目も振らず牌を操っていたという。
葉山は、平和に続いています。