プーリーの新居だよ
春が近づいてきていることは感じながら、それでも肌寒い日が続いていた、そんなある日。
わが「ミユキハウス」の玄関前に、一枚のポスターが貼られた。
みゆきの手書きによるそのポスターには、フレンチブルドッグのプーリーの写真に加えて、
Welcome back to your New Home!
ぷーりー!
の、絵のような文字が描かれており、そこに犬用の小さなセンベイに、クリームチーズを塗ったおやつが貼り付けられている。
そう。この日、プーリーが帰ってくるのだ。
いや、帰ってくるというより、新しい自宅にやってくるといったほうがいい。
ともかく、プーリーに久しぶりに会える。
この日まで、約2か月もの間、プーリーはペットシッターの治美さんの家、いわゆる「ハルホテル」で暮らしていた。
というのは、私がスーちゃんことストライプの介護のため、「ミユキハウス」に泊まり込み、夜も寝たきりのスーちゃんと布団を並べるようになり、プーリーと暮らしていたシーサイドのマンションに帰れなくなったからだった。
初めのころは、なんとかして私が双方を行き来していたのだが、それではみゆきの肉体的、精神的な負担が大きすぎ、みゆきとスーちゃんの共倒れという最悪の事態にもなりそうだった。
そんな私たちを見るに見かねて、
「プーリーはしばらく私が預かります。テリーさんはスーちゃんとみゆきさんの側にいてあげてください」
治美さんがそういって、プーリーを引き取ってくれた。
おかげで私も、スーちゃんを幸せな最期まで看取ることができたのだった。
もちろん、離れて暮らすプーリーのことも気になってはいた。
だが、「ハルホテル」には、プーリーの弟のように育ってきたダックスフントのドゥージーも、その他、治美さんの家族犬、預かり犬など、常に多くの犬が暮らし、一緒に散歩に連れて行ったり、面倒を見てくれたりしていたし、毎日のように治美さんが送ってきてくれる写真を見ると、プーリーはいかにも元気そう。
特に初詣でに近い日に散歩に出た神社の大きな鳥居の下で、まるで狛犬のようにどっしりとガニ股を踏ん張って、偉そうにしている姿には、思わず笑ってしまうほどの安心感が漂っていたのだ。
そんな安心感と、スーちゃんが安らかに逝ってくれたことへの、ほっとした虚脱感のため、あとしばらくは私も「ミユキハウス」に留まって、ふたりで静かにしていようか、とも考えていた。
ところが、それからしばらくして、もう本当のことをいってもいいと思ったらしい治美さんからのメールで、私たちは思いがけない事実を知ったのだった。
それによると、安心して、というか、むしろ威張って暮らしていると思っていたプーリーが、実は私と離れている寂しさや、もともと協調性のない犬種でもあって、周囲の犬たちの仲間に入れないストレス。
そうしたことで、イライラしてほかの犬に当たったり、眠れなかったりしているという。
そういわれてみると、そのころ送られてくる写真のプーリーは、どことなくすさんだ表情で、「人相」が悪い。可愛くない。
やはり、スーちゃんにかまけ切って、プーリーには申し訳ないことをしてしまっていたのだ。
泣きたいような思いになる私たちに、治美さんはしみじみといった。
「プーリーと一緒に暮らしてあげてください」
治美さんも涙ぐんでいるようだった。
このことが、私たちを変えた。
私たちの生き方、生活の形そのものを変えた。
それまでは、結婚してはいても、少し離れたところに別々に、別々の犬と暮らし、それでも毎日のようにどちらかの住まいでふたりの時間を過ごす。ふたりで、食事でも、酒でも、遊びでも、並んで出かけていく。
お互いの犬を連れて、浜を散歩する。
それがいちばんの姿だと思っていた。
だが、その形を変えようとした。
変えた。
浜のマンションはほとんどそのまま残し、季節の服装、身の回りのものなどだけを「ミユキハウス」に移し、私も身ひとつで移ってきた。
夫婦がようやく一緒に住むことになったのだが、そうなったその日から、慌ただしい時間が始まった。
プーリーを迎える準備をしなければならない。
スーちゃんは、家の中ではトイレは、大も小もしなかった。
庭に出したときか、散歩でしかしない。だから、家の中には犬用のトイレはない。
だが、プーリーは、外でもするが家でもする。
トイレが必要だ。
透明プラスティックで囲んだ大きめのトイレは、以前プーリーを連れて「ミユキハウス」に遊びに来るときのために、マンションにあるのと同じものを買ったものの、一度も使っていないのがあるので、それを持ち出して使うことにする。
どこに置くか考えた。スーちゃんがほとんど寝ていたリビングルームには、客も、ピアノの生徒も来るので、そばに大きな犬トイレというわけにはいかない。
だが、1階にあるもうひとつの広い和室には入れたくない。スーちゃんも一度も入ったことはないのだ。
和室には犬は入れない、というのが、5年前にみゆきがこの家を借りたときの条件で、借主が私に代わっても、その約束は変わらない。
考えた末、トイレはキッチンの、シンクやガス台の後ろ、洗面所、バスルームにつながる空間に備えることにした。
そこならリビングルームから見えないし、簡単に使うことができる。
私たちがトイレ、バスを使うときの通路をふさぐ形だが、バス、トイレには玄関側からも行けるし、私とみゆきの、スラリと長い脚(!)なら簡単にまたいで通ることができる。
だが、それだけではない。
私は二階の広い部屋、いままでみゆきの寝室だった部屋を自室、寝室に使い、みゆきはやはり二階だが、以前の部屋とは反対側にある和室を寝室にした。
プーリーは、夜は私と一緒に寝るので、その寝室にもトイレは必要だ。
マンションから、いままでのトイレを持ってきてもいいのだが、向こうにも、たまにはプーリーを連れて帰るかもしれないので、置いておきたい。
そのため、いまのものより少し小さな、同じようなトイレを買って、私の寝室と、隣のユーティリティな部屋との境に置いた。
トイレ事情はひと安心。
次はプーリーの動線の問題。
「ミユキハウス」は、ふたつの和室以外はすべてフローリング。
マンションの床は、リフォームの際、やわらかめの床材に変えていたので、プーリーもドゥージーもほとんど滑らずにすんでいた。
だが、こちらの床は犬のことなど考えて作られていないので、あまり動かないスーちゃんでさえ、ときにはツルリステンをしていた。
元気に走り回るはずのプーリーでは、毎日大変なことになるに決まっている。
「この木の床がいいんだけどなぁ」
といいながらも、やさしいみゆきはネットを駆使して、幅1メートルほどの細長いフロアマットを幾本も購入。
ふたりでプーリーが走る、歩くであろう動線に、ずっと長い帯のように貼り巡らしていく。
玄関からリビング、奥のひと用のバストイレに続く廊下。
リビングからキッチン、プーリー用トイレ。
二階は、階段上から奥の私の部屋までの廊下。 階段のすべり止めも貼り、こうしてプーリー対策は完了。
食器は、以前の小さなものではなく、スーちゃんが使っていた大きなボウルを、オサガリ。
さぁ、早く帰っておいで。
春の始まりを待つ、少々肌寒いが、それでもよく晴れたある日の午後、治美さんの明るい声が風と共に届いた。
「プーリーちゃんがきましたよ!」