
WEEKENDLESS II - 3
自分は本当にこれまでルーブル美術館を観てきたのだろうか。
もちろん長い過去の多くの時間、パリには関わってきたし、いかめしい王宮建築時代も、逆さピラミッドのテーマパークといわれているいまも、数え切れないほどといってもいいほどルーブルを訪れている。ルーブルのどこになにがあるか。どの順路が一番効率的か、といったことなら多分誰にも負けないくらい知ってはいるが、ではルーブルとはなにか。そういわれるとうっと詰まってしまうのではないか。
ルーブル通いのルーブル知らず。
いまふたつの美術展を続けて観て、改めてというかつくづくというか、そんなことを思う。
東京に「ルーブル」がふたつ同時にやってきているのは、だいぶ前から当然知っていた。上野の国立西洋美術館の「ルーブル美術館展・17世紀ヨーロッパ絵画」と、六本木の国立新美術館の「ルーブル美術館展・美の宮殿の子どもたち」のふたつだが、前者は読売新聞社、後者は朝日新聞社と、招聘元は違っていてもどちらも国立美術館。かち合わないような話し合いは行われなかったのか。あるいはふたつをぶつけることによる相乗効果、といったセコイ期待でもあったのか。
このふたつの「ルーブル」には出かけなければならないとは当然考えてはいても、いまひとつ気が向かないというか、今日でなくてもいいかといった腰の重い気分も確かにあった。世田谷からトヨスに引っ越すその準備や作業の忙しさも、思いがけず10日間も入院するという非常事態もあるにはあったが、それよりもまず、ルーブルなんかもういいんじゃないか。もうさんざん観ているし、なにをいまさらとの飽和感があったのだ。「ルーブル」と聞いただけで喜んで押しかけていく日本人と、そのコンプレックスに付け込むような招聘ビジネスへの反感もあった。
だから、ほとんどの野暮用が終わって暇になった4月末に、ふつかに分けて上野と六本木を訪れてみたのは、どちらかといえばしぶしぶ、仕事柄観ないわけにはいかないじゃないかとの義務感からであった。
まず上野。
週日の午前中だというのに会場は多くの年輩女性、はっきりいえばダサいおばさんの群れで埋め尽くされていた。このひとたちは入口のご挨拶から始まって、どうでもいいような絵のひとつひとつの前にじっくり立ち止まって、顔を寄せて説明文を読み、連れのおばさんとあれこれおしゃべりをし、そのくせ絵はあまり見ずにのろのろと進む。中には音声ガイドを借りたのはいいが使い方がわからずヒステリーを起こすオバもいて、時間がかかってしょうがない。
でもこんな連中でも美術愛好者だと思えばまだ許せるのだが、中のなん人か、ひとりではないよ、が聞えよがしにいう言葉を聞いてがっくりした。
「知ってる絵がひとつもないわね」
「印象派はどこにあるのかしら」
この程度のレベルであった。「17世紀」と大きく書かれている看板、パンフレットを見ていないのか。
そうしたひと群れ越しに斜めに観ながら会場を歩いていた私にも、あまりにも無名な作品の数々にはかえって驚かされる。これでは「唯一の」有名作、フェルメール「レースを編む女」の前に黒山のひとだかり、というのもわかる。本場の、パリのルーブルでもダ・ヴィンチの「モナリザ」の前に東洋人とアメリカ人が群がっているのと同じことだ。もしかしたら、読売新聞社さん、このフェルメールを貸してもらえることになってあわててそのほかの「どうでもいい作品」たちを集めたのではないか。
と悪口を並べていますが、実は私にだって歩いていてほっとするというか、あった、あった、と喜びたくなる作品もいくつかあったのは事実だ。
例えばベラスケスの弟子が師匠の名を借りて描いたといわれている「王女マルガリータの肖像」。これじやろうそくの火でおでこを火傷するよと笑われているラ・トゥール「大工ヨセフ」。ルーベンスが神話を読み間違えたともいわれている「ユノに欺かれるイクシオン」など、なぜかわけありな作品が、それぞれ離ればなれに飾られていた。この「わけあり」を承知の上で、無知なおばさんを嗤ってやろうと並べたとしたら、読売新聞恐るべし。そんなことはないだろうな。
要するにこの上野の「ルーブル」、数少ない作品にかなり強引に意味を持たせようとしてかなわず、といった印象で、ま、こんなものか、と帰ってきたのであった。
意味を持たせるということではさらにはっきりと露骨に頑張って見せたのが六本木の「美の宮殿の子どもたち」。
なにがいいたいのか分かりづらいが、つまりルーブルの所蔵作品の中から「子ども」描いたもの、子どもをテーマにしたものを集めました、というわけだ。とここまでいわれてもなおよくわからない感じもするが、会場に入ってまず違和感に襲われるのは、そこに並ぶのは古代エジプトの遺跡から発掘されたような土器人形やミイラとも思しき数々。確かにルーブルの展示品には違いないだろうが、これがルーブルだ、と打ちだすには少々無理があるのではないかといった品々ではあった。
この違和感はなぜか、と考えて思い当った。
ルーブルには、世界のほかのすべてを合わせた以上に古代エジプトの遺跡発掘品がそろっているといわれ、広大なルーブルのほとんど3割近くをそうしたエジプトもので占めており、その翼だけは「美術館」ではなく「博物館」だといわれるゆえんでもあるのだが、はっきりいって、特にエジプト愛好者、研究者以外には退屈な場所でもある。ヨシムラ先生ではない私にはめったに訪れるところでもなく、誰かを連れていくことがあっても足早に通り過ぎるところでしかない。
だから、そんな「へき地」から持ってきたものをルーブルだよといわれても困るな、という気分なのだが、しかしこうして一部をピックアップして展示されてみると、これはこれで、へぇなるほどな、という新発見はある。全部見せるよりちょっと見せるほうがいい、とはなんのことだ。
古代エジプトの子供が作ったのかもしれない小さな小さなテラコッタ「ふたりの子供を抱く女性の小像」など、小さすぎてほとんどのひとが見過ごしていたようだが、なかなか可愛い「美術品」だ。
ほかにはチケットにも描かれていてこの美術展のカンバンのひとつであるらしいティツィアーノ「聖母子と聖ステパノ、聖ヒエロニムス、聖マウリティウス」は、赤と青の聖人色が鮮やかないかにもヴェネツィア派らしい名作であり、フラゴナール「子どもを抱く若い女性」も改めて観ていい。そしてここにもありましたベラスケス。「マリー=テレーズの幼き日の肖像」は、だれもが必ずどこかで、しかも幾度も見た記憶のある作品だろう。それほど同じような絵が多く、各所に点在しているということでもあり、ベラスケスがそれほどポピュラーでありながら個性的であった証左でもある。
この「子ども」テーマの作品群はさらにいくつものテーマに分けられ、たとえば「誕生と幼い日々」にはいまもいったエジプトが、「子どもの日常生活」では中世近世の子どもたちの遊びやお勉強姿が描かれ、と絞られており、有名作が少なく、小品中心に集めたので強引にテーマ分けしました、といったキュレーターの苦心の跡がうかがえるが、「死をめぐって」などなにをいいたいのかよくわからないテーマもあるにはあった。もう少し肩の力を抜いてもよかったのではないか。
と、ふたつの「ルーブル」を観て、どちらもいまだしとはいえ、それでも六本木のほうが観てよかった感が強いのは、このようにテーマがはっきりしていたからではなかったか。そう。ルーブルというヤツは、あまりにも大きすぎて全体を観て理解することなど不可能。よほど厳しくテーマ、目的を絞って観ないと、最初にもいったように、ルーブル通いのルーブル知らず、になってしまう。
大いに反省。今度は自分なりのしっかりしたテーマを持って、すぐにでもルーブルに行きたくなった。もう8か月も行っていない。

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