WEEKENDLESS 51

  薩摩焼の感動と備前焼の悲劇

予想は大きく覆された。
  薩摩焼の展覧会だというから、おそらくはローカル色いっぱいの、ひとりよがりで地味なものかと思っていた。年老いた郷土史家といったような地方の有名文化人がしたり顔で能書きを垂れるのだろうと。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇  ところが思いがけずスケールの大きな、インターナショナルなといってもいいほどの、いやまさに国際的な規模を持つイベントであった。
 両国駅前に、相撲の国技館をもはるかにしのぐ壮大さで広がっている江戸東京博物館。その1階のほとんどを使って開催されている薩摩焼の展覧会は、副題に「日仏交流150周年記念特別展」とうたわれているとおり、最初の展示品からして、意外性に目を奪われる。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 つまり、いまこの場所が果たして東京の下町であるのか。それさえも疑ってみたいほどの、ミスマッチ感というか、あたかもパリにどこか、大きな美術館、博物館にいるかの錯覚にとらわれたのだ。
 薩摩焼というと、不勉強にして白薩摩、黒薩摩くらいしか知らなかった私が悪いのだが、そこにおごそかに並べられている品々は、たとえば古代シナか、シルクロードはペルシャあたりか、はたまた中世イングランドのものか、そう感じられるように極彩色であったり、きらびやかであったり、シックだったり、イメージしていた薩摩焼とはまるで違っている。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 一見して、これはフランスの誇るセーブル焼ではないか、と思ったいくつかの花卉、茶器には、そのとおり、説明書きによればフランスの国立陶磁器博物館から貸し出しされたもの、つまり逆輸入で、これらが1867年のパリ万国博に出展されるや、かの地のセーブル焼工房に大きなショックを与え、翌年にはこの薩摩焼を模したセーブル器が世に現れたとある。あのマダム・ポンパドールが奨励してフランス中に広めたセーブル器でさえも、薩摩焼の素晴らしさを無視し得なかった。
 面白いことも知った。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 セーブル器が薩摩焼の影響を大きく受けたそのとき、初めてのパリ、初めての海外で、世界に目を見張っていたわが薩摩焼のほうも、セーブル器の見事さ、斬新さに心奪われ、帰国するや否や薩摩の地でセーブル器に似た陶磁器を作るようになったということ。
 日本側からいえば、異文化を輸入したことになろうが、フランスとしては、これこそジャポネスムなのであった。モネ、ゴッホ、セザンヌなどなど、多くのすぐれた芸術家たちがジャポネスムの流れに身を投じるようになるのは、これよりかなりのちのことであった。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 広い会場の、順路としては終わり近くのあたりだが、薩摩焼ではなく、フランス人が薩摩焼を真似て作った茶器が番外として並べてあった。だがそこにあるのは、どう見ても日本製。侘び寂びとはこうしたものをいうのかと感じられるような、見事な茶器のいくつかだ。ジャポネスムは、ジャポンを追い抜いていたのだ。
 いやぁ、薩摩焼の奥は深い。そして、薩摩焼の世界は広い。

しかし、なぜいま薩摩焼なのか。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇いうまでもなく『篤姫』だ。大河ドラマなど過去にもほとんど見たことのない私であるし、ましてや『篤姫』にいたっては、どうみても「あんみつ姫」にしかなりようのない宮崎あおいと、なにかしら愚かしい存在であるらしいその髪結い亭主にいわれのない不快感を感じて1度も見ていなかった。だが、どうやらそれは食わず嫌いというか、誤った先入観だったようだ。
 といってももう遅い。結局私は『篤姫』を無視するよりほかになかったのだが、この薩摩焼展でも当然のように『篤姫』にあやかっていて「篤姫が愛した薩摩焼」なるコーナーもしっかりあった。しかしここには、こまごました犬猫のミニチュアなどの小物ばかり。このコーナーは必要なかった。『篤姫』にお出ましいただくことはなかったなと思わせ、いくらか溜飲を下げさせてはくれた。

薩摩焼といえば白薩摩と黒薩摩しか知らなかったとはいったが、3時間ほどかけて厖大な薩摩焼を眺めて思ったことは、やはり白薩摩、黒薩摩、そしてそれらの前身ともいえる古薩摩に勝るものはないということだ。セーブル器との歴史的なエピソードもあるにはあったが、フランス人が最後に倣ったのも、侘び寂びの黒薩摩ではなかったか。
 私が特に心奪われたのは、17世紀に作られたという古薩摩の茶器。言葉では表現できないが、すっと気持ちが引き込まれていくかの静けさ、素晴らしさ。
薩摩に朝鮮半島から陶工が渡ってきたのが16世紀だというから、わずか100年ほどでこれほどの名器を生み出した薩摩という土壌は、陶芸というDNAに恵まれていたのかもしれない。

予想外の充実感に満たされて会場を出て、国技館の屋根を見下ろすレストランの客になった私は、遠い昔を思い出していた。
24、5歳。まだまだ駆け出しの私は、ある歴史雑誌に100枚ほどの小説を発表した。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 天正10年、織田信長が本能寺に果てたそのとき、豊臣秀吉は備中の国にあって小さな城、高松城を攻めていた。あまりにも有名な高松城の水攻めだが、この歴史的事実を、高松城主、清水長左衛門宗治の側から描こうとし、そのために岡山に出かけて、幾人ものゆかりのひとたちに会ったり古文書に当たったりしたのだが、その話はここではどうでもいい。その取材旅行で知り合った岡山地元の名士の紹介で、備前焼の窯元を取材することができたのだ。
薩摩焼の感動と備前焼の悲劇 この取材は『備前焼の郷を訪ねる』という、なんの工夫もないタイトルで雑誌に掲載されたが、このときに、東京から来たわけもわからない若造に快く会ってくれ、話してくれ、制作の姿まで見せてくれた陶工が、金重陶陽師。備前焼に桃山時代を取り戻したといわれ、備前焼中興の祖とまでいわれた偉人で、のちに人間国宝にまでなった巨匠だった。紹介者がよほどのひとだったからに違いなかったし、私のこの文章はそれなりの評価を受けはしたが、若い私にはその凄さはわかっていなかった。まさに、猫に小判。
 いま思っても鳥肌が立つほどだが、金重陶陽先生は、なんと私に自作の茶器をプレゼントしてくれた。そしてさらに恐ろしいことに、いただいたその貴重な品を、私はあろうことか、文章を書いた編集部にお土産として置いてきてしまったのだ。ものを知らないということは、なんと悲しいことでありましょうか。馬鹿馬鹿。返してくれぇ、人物往来社よ。

その3年のちの1967年、金重師は亡くなったが、すでにパリに渡っていた私の許に、その訃報は届かなかった。