WEEKENDLESS 48

「大江山」はヌーベルバーグだった?   

前回ここに来たのはいつだったろうか。丸山敦子さんのおんな能で「卒都婆小町」を観たのが最後だったから、そうか、もう半年余りも来ていない。その間、延べにして2ヶ月間は海外に出かけていたし、年末年始が挟まっていたりしたので仕方がないともいえるが、それにしても半年のご無沙汰はいけないな。
大江山 というわけで、渋谷の観世能楽堂にやってきたのだが、そんなタイムラグを少しも感じさせないほど、この能楽堂は変わらない。前庭に多くの客たちが集まって開扉を待っているのに、そしてその客の多くが超のつく高齢者であるにもかかわらず、1分たりともおまけしないよとばかりに頑としてドアを閉ざしているのも、それに文句もいわずにふわふわとのどかに世間話をして待っている客たちも少しも変わっていない。世間離れしているというのか、細かいことにはこだわらないというのか、これが能の世界なのかなと思わせる、そんな雰囲気で、そこがまた妙に懐かしい。
 久しぶりだから懐かしいのか、この懐かしさを味わいたいからやってきたのか。いずれにしても春には遠い時期に観世能楽堂を訪れたのは、この日催されるひとつの能舞台のためであった。
大江山 「大江山」。観世流に限らずすべての流派にとって代表的な舞台であり、あえていうなら金剛流の持ち舞台だが、そうでなくとも都内でこれを観るのは最近では珍しい。これを見逃す手はない。「大江山」は特別なのだから。
 ここのところかなり集中的に歌舞伎を観ている。20年近い海外生活の埋め合わせというか、お詫びというか、そんな忸怩たる気分からでもあったのだが、数多く観ていてあることに気づいた。昼の部にしろ夜の部にしろ、メインの演し物のほかに短い軽い演目が必ずある。踊りの場合が多いが、そうでなく普段見る機会のない、つまり有名ではない外題があり、その中に明らかに能舞台から来たものだなと思わせるものが少なくない。
 幕が上がってすぐに役者が静かに歩み出てきて、演技を始めるではなく、
 ここにいでしはこのあたりに住まいしものにて候。
大江山 こうやって始まるのは間違いなく能舞台からのアレンジだ。歌舞伎ファンから見れば、シャンソンのステージにいきなりクラシックが流れるような違和感があり、不快に感じるひともいるかもしれないが、私にはそれが不思議に快感ではあった。歌舞伎でありながら能の形を残している。能の名残をそのまま歌舞伎の板に持ち出している。それが感性にマッチした。そういえばいいのか。
 能舞台で「大江山」が演じられると聞いて矢も楯もたまらずに駆けつけるのもそんな感性のたまもの。なによりも歌舞伎に近い能舞台。もしかしたら能と歌舞伎の中間にあるのではないか。そうとも思える演目なのだ。

大江山 「大江山」は、いうまでもなく酒呑童子の物語。都にほど近い大江山に住み、都の女をさらって下女として使った挙句に取って食うという酒呑童子なる鬼。源頼光は山伏に扮してそれを退治せんとてでかけ、という有名なオハナシで、民話であり童話であり、多くの舞台、映画にもなっている。そしてもちろん能舞台でも大切なひとつでもあるのだが、これが歌舞伎に最も近いというのにはわけがある。ともかく変調、破格、型破り。
能舞台の始まりは、大概に置いて主役(シテ)と脇役(ワキ)、せいぜいあとひとり(ツレなど)が、しずしずと橋懸りから現れ、いまいったような、ここにいでしは、の挨拶、自己紹介があって、おもむろに、悠々と物語をかたり、謡い、舞っていくのだが、「大江山」ではいきなり山中の河原で血に汚れた布を洗う、さらわれた洗濯女が登場。そこに強力、いまでいえばガイドのような男がやってきて、あらま、おめぇさんは今出川のイチヤちゃんではないかや、おらの嫁になってくれや、などとコメディスタート。
 やがて山伏に変装した源頼光一行が現れるのだが、これも能舞台は少人数といった掟を破ってなんと6人がかりの大デレゲーション。大きな男6人が狭い舞台上に押すな押すな状態だ。
 そして酒呑童子(前シテ)の登場。鬼神といいながらも可憐なる面姿。相手をいわば聖職者、山伏と信じているので、自分がいかに陰謀に敗れたか、なぜ比叡山を追われたかをせつせつと語る。そんな童子に源頼光は次々に酒をすすめ酔わせようとする。童子は山伏にすっかりと心開き、自分の通力の秘密まで明かし、酔って臥所に去っていく。
大江山 このシーンを通じて見えてくるのは、童子、つまり鬼は悪いやつでそれを退治する源頼光は正義の味方、という従来の“正しい”考え方ではなく、むしろ可哀そうな童子とずるがしこい源頼光という図式だ。数多くの有名作品を次々にひっくり返していくのが流行った時代もあったが、まさにその先取りのような形だ。太宰治の「お伽草子」であり、最近では「ほんとうはこわいグリム童話」などの原型をここに見ることができる、とまでいえばオーバーだろうか。
 いよいよ源頼光の鬼退治となるのだが、その前に、冒頭に登場したさらわれた洗濯女イチヤちゃんと強力が再び現れて、嫁になれ、やなこった、そういわずにさ、やだやだ、頼むよ、そんなにいうんなら、などとぐたぐた、くどくど、いちゃいちゃ。そしてふたりは手に手を取って山を逃げ降りていくエピソードが挿入される。こういったスタイルをコメディリリーフといい、古い形のドラマトゥルギー作劇術のひとつのパターン。いまも多くの映画演劇にいきている。いまでこそ古いパターンだが、当時といては最高に新しい実験だったのではなかろうか。「大江山」が能におけるヌーベルバーグ、歌舞伎への足掛かりたり得たというのはこうしたところにあるのだ。
 こうしてようやく鬼退治。騙されたと知った酒呑童子が、今度こそ恐ろしげな鬼面で、源頼光と山伏たち相手の大立ち回り。ここには能舞台とは思えない、歌舞伎でもこうまでは、といえる迫力たっぷりのアクションシーンがある。観世流はこれでもおとなしいほうで、金剛流では酒呑童子が宙に舞い、トンボを切るといったアクロバティックな見せものさえあるという。
 けれども最後はやはり“お約束”どおり。酒呑童子は退治され、源頼光は意気揚々と都へと凱旋するのだが、観客はどうもすっきりしない。これでは騙し討ちにあった酒呑童子が可哀そうじゃないか、との気分を残したまま終わっているのだ。
 これこそまさに作者の狙い通り。世の中は不条理で満たされているとする実存主義とまではいわないが、酒呑童子をときの政権に対抗する民衆の代表とするなら話は通じようか。
能や歌舞伎といったジャンルは、やはり伝統、古典といった世界に閉じこもっていてくれたほうがいい。

 

大江山