WEEKENDLESS 45
こいつは春から、歌舞伎漬け
しばらく、といっても2週間余り前のことだが、少しあわてて電話をかけて、歌舞伎のチケットを手配したものだ。
というのは、正月明けすぐには横浜まで出かけてポール・セザンヌの美術展「セザンヌ主義」を観、それでなんとなく正月が終わったような気になっていた。セザンヌ鑑賞が私にとっての初詣でのようなものと思っていた。
だが、なにもすることのない昼間、少し前にHDDに録画しておいた新春大歌舞伎の舞台放映を思い出し、再録し、画面をデジカメで写したりしていてはっと気がついた。この舞台のチケットをまだ取っていないではないか。
あわてて電話予約したのはいうまでもないが、年に1度の新春大歌舞伎。これを忘れるとはわれながらドジなことでもあった。日本に帰ってからまだ3回目の正月なので、自分が日本にいることをうっかり忘れてしまっていたのか。あるいは昨年末、クリスマス過ぎまでの長いあいだずっとイタリアを旅していたため、時差ぼけだか旅の疲れだかで、ぼんやりしていたのか。ああ、自分はまだ日本人に戻りきっていないな。そんなことを考えさせる出来事ではあった。
しかし、だ。3年足らず前に戻ってくるまでの15年間というもの、私はずっとアメリカに住んでいて、日本にはほとんど帰っていない。まして正月、この寒い日本に帰るわけなどないではないか。さらに、アメリカに定住する以前の10年から15年間、年末年始に日本にいることなどまずなかった。そのころは多くの雑誌やテレビの仕事で忙しかったので、プライベートでゆっくり海外に出かけられるのはその時期しかなかったともいえる。だから紅白歌合戦など見たことがないが、これはいまも変わらないから旅のせいでなく、好みの問題、主義の分野だろう。
こう考えなおしてみると、今年歌舞伎のチケットを忘れかけたのも当然といえるかもしれない。大体私が歌舞伎に目覚めたのが、3年間のパリ暮らしから帰ってきてしばらくたってからのことで、その数年後には海外放浪、徘徊が始まっているのだから、私の歌舞伎歴は長いようでずいぶん短い。中抜けの時代が長いのだ。外国にいても、いや外国だからなおさら夢中になれていたオペラとは比較にならない。そう。私はいつまでたっても歌舞伎の新参者なのです。

その歌舞伎新参者がこの夜出会った新春大歌舞伎の演目はというと、「壽曽我対面(ことぶきそがたいめん)」、「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」、「鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)」の3本。「鏡獅子」がいかにも新年らしい賑やか華やかな舞踊劇だったのは当然としても、「壽曽我対面」が新年恒例の演目であることは、解説文を読むまで知らなかった。ご存じ曽我兄弟の仇討話のどこが新年の寿ぎに通じるのか。30年前に私がこれを観たのも、やはり新年早々だったのか。
だが、配役の曽我五郎、十郎が中村吉右衛門に尾上菊五郎、憎き仇工藤祐経に松本幸四郎という、なんとも豪華贅沢ぶりを観れば、これぞまさに新春という気分にもなる。
それにしても幸四郎の祐経のふてぶてしくも憎ったらしさ。この名優は2月には数度目の「ラマンチャの男」を演じるという。相手役は娘の松たかこで演出はやはり娘の松本紀保。この歌舞伎座にも息子、染五郎が重要な役で出演していることを思えば、高麗屋、天下を取ろうかという勢い。
幕間に地下の食堂でお約束の幕の内御膳に正月ならではのお銚子を1本、帰りの運転を考えながらいただいての「鰯売」。これはまたがらりと変って中村勘三郎の猿源氏に坂東玉三郎の傾城蛍火と来れば、もう吸い付きたくなるほどのあでやかさと軽いときめき。おかげでお銚子の酔いが去らずに困ったぜ。
やはり歌舞伎はいいねぇ。帰りの首都高速、運転席側の窓を細目に開け、びっくりするほど冷たい空気を引き込みながらのドライブ、私は「鏡獅子」のトトンシャッ、トトトンシャのリズムを刻み、上機嫌。
日本にかえってからの3年間、毎月1度は歌舞伎の日、と心に決めながら、海外徘徊などで結局は半分ほどの実現で済ませていた。いやぁ、すまんすまん。で、今年は3月にはトヨスに引っ越すし、それからしばらくは新しいご近所に慣れるためにも日本にいる期間が長くなるだろう。新しいご近所には、歌舞伎も含まれる。
歌舞伎座はいうに及ばず、すぐ目の前の新橋演舞場は若き名優市川海老像のテリトリー。トヨスからパリのバトームーシュを真似た水上バスでまっすぐ浅草に向かえば、勘三郎を座長にいただく中村屋の浅草歌舞伎がいよいよ隆盛。オペラもいいけど歌舞伎もね、といった日々になれそうだ。
あ、そうそう、高麗屋、中村屋に並んで決して外すことのできない成田屋。市川団十郎はいま、まさにこの時期、皇居に面した国立劇場の舞台に立っているはずだ。演目は確か「象引(ぞうびき)」。観たことのない歌舞伎舞台だが、だからなおさら観ないわけにはいかない。え? 今月27日が千秋楽だって?
帰ってすぐにインターネットだな。
引っ越しを待たずに、今年は春から歌舞伎漬けか。