WEEKENDLESS 44

新年は初“セザンヌ”詣で 

セザンヌ

会場に入っていきなり驚かされた。
 順路どおりに見て回るつもりで、大きなパネルの「ごあいさつ」は通り過ぎ、展示番号1番の前に立つと、そこにあるのは丘の上の台地に立てられたイーゼルと描きかけのキャンバス。そしてパレット片手にその絵に向かう黒衣の老画家の姿。モーリス・ドニの「セザンヌ訪問」。20世紀初頭、パリの画家モーリス・ドニが南フランス、エクス・アン・プロヴァンスに先輩画家ポール・セザンヌを訪れたときの、記念撮影のような作品だ。
 次に展示されているのは、エミール・ベルナールの「セザンヌ礼賛」。その老人の顔の下半分を覆う髭はあくまで白く、頭部は見事にはげ上がり、多分電球の光に輝いている。明らかに老境にあるセザンヌの肖像画だった。
 これはいったいどういうことなのか。私は「セザンヌ展」を観にきているのではなかったか。それなのに、全体を象徴するべき最初の2点の作者がセザンヌではない。たとえば文学全集のある文豪の集の巻頭に、まったく別の作家の作品が、前書きや解説、推薦文ではなく、完成された作品として載せられているようなものではないか。
  「セザンヌ展」でありながら、当のポール・セザンヌ作品が現れたのはようやく3点目の「麦藁帽子をかぶった子供」で、これとてもセザンヌの代表作のひとつとはいい難い作品であろう。
 というわけで、会場に入ってすぐにうーんと考えさせられたのだが、これこそがまさにこの美術展の狙いそのものではないか。セザンヌを観にきたひとたち、セザンヌしばりを期待し、それ以外のことは想像だにしなかった観客に、いきなりショックを与える。そのことを通じてこの美術展の真の狙いを考えさせ、わからせる。一種のショック・トリートメント。
セザンヌ だから、正しくは「セザンヌ展」ではなく「セザンヌ主義」とされている。
美術展の企画者、キュレーターの作戦、狙い、センス、思想。そういったものを一挙に感じさせられて、私はたちまち引き込まれていったのだった。さらにいえば、こうした発想をさせることが、ポール・セザンヌという画家の特性であり、才能であり、先見性であり、偉大なるお手本ともいわれるゆえんでもあるのだろう。

セザンヌ

正月もようやく明けたこの日、私はすでにUターン渋滞のさなかにある第3京浜を走って横浜美術館にやってきた。
 みなとみらいの高層ビル群の中央にあるこの美術館は初めての訪問。みなとみらいという広壮な埋立地は、私がアメリカに住んでいる15年のあいだに企画され、開発されでき上がった場所で、その完成までのプロセスをまったく知らずにいた。もちろん情報としては聞いていたし、写真でも見たことはあり、日本に帰ったらそこの超高層マンションに住んでみるのもいいかな、と考えたこともあった。これまでの日本の姿とは大きく違う。日本でありながら日本ではない。私が暮らしていたニューヨークはマンハッタンのビルの林立にも似た無国籍性。そんなものが心を捉えはしたが、実際には同じような無国籍性を持ちながら、歌舞伎座、上野、銀座などへの利便性をも備えている、この3月に完成の豊洲、トヨスと書いたほうがいいか、そこを選んだのだ。
セザンヌ だから、横浜美術館訪問にはみなとみらい見物の狙いもあったのだが、その目論見が吹っ飛ぶほどの驚きを与えてくれたのが、いまもいった展示法だった。
 いや、もう少しいわせてもらおう。
 セザンヌは横浜に似合っている。横浜という都会の姿、あり方が、セザンヌの人生、その作品群に似ている。
 日本のひとつの都会でありながら、ほかの街と大きく違っている。日本でありながら日本ではないというか、全体の大きな流れに、背を向けはしないが、無関係に自分の姿を作り、守っている。そしてその姿はほかの都市たちのある種あこがれでもあり、見本でもあり、ときには反面教師でもあった。
 印象派の仲間と思われ、後期印象派ともいわれ、しかしみずからそれを否定するも、型にはめたがる画壇から、それならポスト印象派ではどうか、とされ、それを認めるでもなく抗うでもなく、関係ねぇよ、とばかりにあくまで自分の画法を押し通す。最先端のパリを離れて、生家のある南フランスの田舎にひきこもって、描きたいものだけを、描きたい形で描き続ける。
セザンヌ そんな生きざまは、中央画壇から無視され、一般の美術愛好家、パトロンたちからも忘れられ、いったんは消え去ってしまったかに思われるも、あとから世に出た多くの若手画家たちが、彼の才能、先見性、を見抜き、その偉業にあこがれてあとを追うようになった。最初に見せられたモーリス・ドニ、エミール・ベルナールの作品もそのひとつであった。
 もちろんパブロ・ピカソのように、影響を受けているくせにそのためにかえって反発する後進もいないではなかったが、アンチ巨人も巨人ファンというのと同様、セザンヌの追っかけといえないこともない。
 横浜とセザンヌの共通点、少々強引だが、お分かりいただけたであろうか。
 なぜこのようなことを考えるかといえば、かつて私が目指していた生き方と、セザンヌの生きざま、横浜の在りざまが似かよっているからなのだ。
 セザンヌそうか、もう20年近くにもなるのか。当時の私は、山のような締め切りを抱え、起きているときは字を書いているか、ひとに会っているか、駆け回っているか。自分でいうのもなんだが、時代の、マスコミの先端を走っていた。だがそんな日々を突然破壊し、勝手にセミリタイヤを宣して渡米。日本を捨てた。
 書くことをやめたのではなかった。大幅に、というより大部分の仕事はキャンセルとし、あとは書きたいものだけを書きたいように書く。それが活字となって売れればそれもいいし、売れなくても一向に構わない。いまこうして書き続けているのも、なにかを発信し続けるという、ものかきとしての宿命のような流れであって、それ以外のなにものでもない。
 そうだったのか。そういうことだったのか。
 セザンヌ私は横浜美術館の、展示室の椅子に坐ってひとりうなずいていた。日本では、不当なほどに人気のない、それでも観る目のあるひとたちには熱烈に支持されているセザンヌに、私が強く惹かれているのは、そういうことだったのか。
 美術作品を観るということは、あるいは自分を観ることなのかもしれない。
 しかしセザンヌの影響、感化をこれほど多くの画家たちが受けていたとは。
 セザンヌの絵と並んで、同じような画題、テーマで描かれたほかの画家の絵があるが、そこに並ぶのはゴーギャンであり、モディリアニであり、ヴァン・ドンゲンであり、シャガールであり、そして日本からも安井曽太郎、国枝金三、木村荘八など多くの名が見られる。みんなセザンヌが先生だった。そんな言葉も浮かんでくる。

セザンヌ

頭と心がいっぱいになるほどセザンヌとセザンヌの信奉者の絵を見続けて、すっかり疲れて美術館を出た私だったが、みなとみらいのキーンと澄んで冷え切った空気がその疲れを心地よく洗ってくれた。
 まだ時間は早い。帰りに川崎大師にでも寄ってみようか。今年、まだ初詣でを済ませていない。
 しかし、私はその計画を捨てた。
 初詣ではもう済んだではないか。ポール・セザンヌという近代美術の神様、芸術家としての生き方のお手本。そんなセザンヌにじっくりと浸ることができた。これが私の初詣で。
 遅まきながら、明けましておめでとうございます。