WEEKENDLESS 41
苦節三千年、シチリアはパレルモの驚き
4日間滞在してみて、パレルモというのはつくづく不思議な街だと思う。というより、シチリアという島がそもそも不思議なところであって、その州都であり島一番の大都会であるパレルモが、シチリア全体を象徴するかに不思議さにあふれている。そういったほうがいいのかもしれない。
まず、この街がどこの国にあるのか、それがときどきわからなくなる。ひとびとの話すのはイタリア語だし、標識、看板もすべてイタリア語で、イタリアの都市であることは間違いないのだが、街を歩いていてふっとそれを忘れてしまいそうになる。もしかしたらここはスペインなのだろうか、と感じたり、あまりよくは知らないがアラブのどこか、モスクなどがある街にいるような気にもなる。そうかと思えば、ああ、やはりここはイタリアの都会なのだと安心させられることもあって、4日間、私の気持ちは不安定に揺れ続けていた。そのことこそがシチリアの、パレルモの持つ特殊性、歴史の荒波に絶えずさらされ、流されてきた宿命の香りなのかもしれない。
パレルモは、西に海、東に山といった地形にあり、はるか先史時代に早くも作られていたという港から山に向かって真っすぐに続く、いまの名をヴィットリオ・エマニュエル通り。その突き当りに壮大なカテドラル。そしてこの大通りの中ほどに直角に交わるマクエダ通り。この十字架の形をした通りを中心に広がっていったのだが、このあたりが旧市街。旧、といってもギリシャ人に占領されるよりさらに前の話だから半端な古さではない。
この旧市街には当然のように昔からの建物、モニュメント、教会、城址などが集中しているので、旅行者としてはこのあたりを中心に歩きまわるはめになるのだが、大通りとはいえ他の国の都会に較べれば路地といったほうがいいような狭い道を、傍若無人の小型車がけたたましくホーンを鳴らして走りぬけ、その間隙を縫って信号無視の住民がのろのろと歩いている。慣れない人間は来るなといわれているようで、知らず立ち尽くしてしまうこともたびたび。
おまけに回りは石造りの建物ばかりで空気の抜け場所がないために、排気ガスが濃く渦巻いていて、のどは苦しく目は痛い。イタリアでも他の歴史的な街のように車の進入禁止にすればいいのに、実際に多くの住民が生活しているわけだからそうもいかないようだ。1度はそれに懲りてタクシーを利用したが、十字架の四つ角、クワトロ・カンティでストライキのデモに出くわし、進もならず逃げるもならず、歩いて20分ほどの目的地までこの分なら2時間はかかるといわれ、30分後にタクシーを降りたものだ。イタリア名物のストライキ、ショーペロにこんなイタリア的でない街で出会うとはなんたる不運でありましょうか。
それでもシチリアの、パレルモの歴史は知れば知るほど興味深く、工事中、
修復中、わけもないお休みも多く、4日間通い続けてもまだ半分も見ていない気がする。
そもそもシチリアには、イベリア半島、ギリシャ、アラブ、近くはイタリア半島などから渡来してきた先住民がばらばらに住んでいたのだが、紀元前8世紀、自国の人口が増えすぎて経済的に苦しくなったギリシャが、多くの国民を強制的にシチリアに送り込み植民地とした。これがシチリア統一の最初。
それからのシチリアの変動はめまぐるしい。ギリシャからローマ帝国、さらにはいわゆる蛮族と呼ばれるヴァンダル族や東ゴート族の支配を受け、続いてビザンツ(東ローマ帝国)の占領下。中世になるとアラブ時代、ノルマン時代、ドイツ(ゲルマン)時代、フランス時代、スペイン時代。草刈り場というか、椅子取りゲームといおうか、なまじ沃土に恵まれ海に囲まれて温暖であるばかりに、いいようにあしらわれてきた。
近世にはいっても、北イタリアのサヴォイア家、オーストリアのハプスブルグ家、ナポリの、といっても元はイベリア半島のブルボン家が続いた。
1860年にようやくイタリア王国に併合されたが、ここまであわただしい歴史を持つと住人たちは祖国意識を持ちにくくなるのではないか。だからシチリアのひとの多くは、自分の所属を尋ねられると、イタリアとはいわずシチリアと答える。
あまたの支配者の中で特にスペインのブルボン家、そのはるか前のアラブがシチリア人を大切に扱ってくれたそうで、自分たちの先祖をスペインやアラブに求めるひとが多いそうだ。
フランス時代の13世紀、フランス人の横暴に耐えかねた住民たちが復活祭の夜に爆発し、全島を挙げての独立運動へと発展した「晩祷の戦い」はヴェルディのオペラ「シチリアの晩祷」に美しく描かれているし、19世紀初頭ハプスブルグ家がウィーンとナポリを勝手に併合させることに屈辱を抱いた島民が、マンツィーニ、ガリバルディたち愛国者の指導で立ち上がったことは、のちのイタリア統一へと進むきっかけとなった。この時代のことは、ヴィスコンティの映画「山猫」を観てから改めて学んだ。保守的な老貴族バート・ランカスターと近代思想を持つアラン・ドロンが、当時のシチリアを象徴していた。バート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレが延々と踊り続けるシーンは忘れることができない。
このようにパレルモの旧市街を歩いていて目に、心に留まるものは遠い歴史ばかりだが、旧市街の北に広がる新市街はいまも成長を続けていて、南に進めば進むほど近代的、都会的に、豊かにお洒落になっていく。私もここにホテルを定めたが、ここに帰ってくると、ああ、やっぱりイタリアだ、とほっとする。
ミラノで急に思いついてやってきたシチリア、パレルモなので、しかも初めての地なので、詳しいことはほとんど知らず、着いてから勉強するという暴挙ではあった。だが、思いがけず素晴らしいご褒美もあった。
初日、旧市街から歩いてホテルに帰るときに、マッシモ劇場の前を通った。
写真や映画では幾度も見たあのマッシモが、当然のことながらそっくりそのままの姿で聳えている。例の有名な石段の下に進み、見上げた私はガラスに包まれた1枚の看板に気づいた。
「アイーダ」が上演される。日時は、えーっ、6日のちではないか。
さらに観察すると、石段下の鉄扉が少し開いており、劇場横の小さなドアも開いているようだ。ボックスオフィスか。恐る恐る上がってみた。
ミラノではスカラ座「ドン・カルロ」の当日券が当然拒絶されたので、9割以上あきらめていたのだが、なんと残りの1割に当たってしまったのだ。しかも2階正面ボックスシート。なんでもトライしてみるもんだね。
というわけで、あと3日はパレルモにいなければならんといううれしい誤算が生じたのであった。
じゃ、自分へのお祝いにおいしいシーフードといきますか、とホテルのコンシェルジュに、近くてこじんまりして静かでおいしくてそれほど高くなくて、とうるさい注文を出して教わったのがジジ・マンジャなるリストランテ。名前を聞いてむっとしたね。マンジャが食事だとはわかるが、ジジとはなんだ。ジジとは。コンシェルジュがいいました。ジジとはその店のマンマの名前ですよ。そんなこと、わかってらい。
ジジ・マンジャ。入口がわからないほどの小さな店だったが、シチリアらしいシーフードを北イタリアはミラノ的シャープでおしゃれに仕立て上げ、ワインは安くても上等、初めて飲んだシチリア産グラッパも見事で、おいしゅうございました。マッシモの帰りにも寄りますよ。