WEEKENDLESS 40

 ミラノ、日曜日の孤独が好き 

 このホテルの朝はいつまでたっても暗いままだ。普通にヨーロッパ風な観音開きのガラス窓に厚地のレースのカーテンが巡らされ、ガラスの外には頑丈そうなメタルのルーバーが降りているためだが、ルーバーはセキュリティのためではない。窓の外、つまりホテルのファサードの前はトリノ通り。車通りが多い上に路面電車まで走っているので、ルーバーで覆っていなければとてもホテルの静けさは守れない。
 だから、朝起きてすぐにすることは、ベッドサイドのスイッチでルーバーを開けることだ。そうするとようやくいつものミラノらしい騒音が流れ込んでくる。わくわくするほどのうるささが。
ミラノ だが、この日の少しようすが違っていた。部屋は明るくはなったもののなんの音も聞こえない。窓辺に進みカーテンを持ち上げてみる。トリノ通りにひと通りは、ない。路上駐車の車が数台。ひとの気配はない。いやいまひとり、小柄な老人が、傘をさして前かがみで通り過ぎていった。赤い屋根の小さな車が音もなく滑るように過ぎていった。それだけ。電車のレールが、信号を反射して赤く、青く輝いている。
 そうだった。今日は日曜日。
ミラノ ミラノに来てもう12日。2回目の日曜日なのに、先週のことは覚えていない。こんない静かだったろうか。そうか、前夜の大酒。ガリバルディに住む友人のアパートに招ばれて2時過ぎまで痛飲し、夫人の運転でホテルまで送り届けられ、そのまま昼近くまで死んでいたのだった。
 12日間、例によって歩き回っていた。
 ブレラ美術館には3回行った。それでもまだ物足りないのは、大掛かりな改装工事と絵画の修復のさなかにあって、いつもの半分ほどしか見ることができなかったからだ。マンテーニャの「死せるキリスト」、キリストの死を足の裏から描いたこの作品はようやく見ることができたが、ラファエロ「聖母マリアの結婚」もアイエツの「接吻」も、陳列から外されていた。ただ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、広い部屋に、他の絵が修復中のためただひとつぽつんと飾られており、それが部屋の入口のすぐ後ろにあるので、気付かずに通り過ぎていくひとが多いのは愉快だった。
 顔見知りの野良猫たちがいるスフォルツェスコ城にほど近い市立近代美術館に、モディリアニ、モランディたちに混じってヴォルペードの20世紀初めの労働者の群れを描いた大作「第四階級」があったのは発見だった。この絵は確かブレラに飾られていたのではなかったろうか。
ミラノ スカラ座とモンテ・ナポレオーネ通りとの中ほどという絶好地にありながら、入口が奥まっているために訪れるひとが少なく、穴場的な立場を守っているのがボルディ・ベッツオーリ美術館。代々ミラノの貴族だったベッツオーリ家の所蔵になる中世から近世にかけての美術品、工芸品、貴金属、そして、こんなところにあるのか、といえるような有名絵画もびっしりと並べられており、閑散とした中の贅沢さを思い切り味わえる。あまり宣伝したくない場所だ。ここに丸々半日過ごし、閉館で追い出された。
 ホテルから近いアンブロジアーナ美術館は、時間の関係で前半と後半の2回に分けて訪れた。ダ・ヴィンチ「音楽家」は確かにいい絵だろうが、ダ・ヴィンチ特有の神秘性というか、魅力に乏しい気がする。そしてこの美術館、どこかお役所的な空気に包まれており、コーナーコーナーに立っているおじさんたちが、キュレーターというよりも監視役のようであまり楽しくない。
 美術館のほかには、短いあいだに3回も出かけたのはホテルから南に下がり、都心から離れたナヴィリオ運河。ミラノがアルプスからやってくる水路、運河の街として繁栄した14世紀ごろの面影をそのまま残している、といわれてもよくわからないが、ヴィスコンティ家の治める時代だったろう。
ミラノ いまは有名レストラン、中には船着き場まである店も並ぶ華やかなグランデ運河よりも、それに直角に交わる、なんという名前だったかな、小さな運河のほうが好きだ。名のない石橋で結ばれた左右の岸の小道には、昔は倉庫だったのか、いまにも崩れ落ちそうな古い商店が並んでいる。いや、並んではいない。櫛の歯が折れたようにぽつりぽつりと店を開いている。どの店も、やる気がないというか、つぶれるのを待っているかのように、例外なく老人、まずおばあさんがつまらなそうに店番をしている。やる気がない、というのは、朝は10時から開くとなっているのに、昼ごろになってもまだ開けていなかったり、開けたにしても30分ほどでさっさと昼休みシェスタに出かけてしまって、4時に戻ってきたかと思うと5時には店じまい。この、客に来るなといっているような店たちが私は好きだ。なにも買うものもないのに、ミラノに来るたびにぶらぶらやってきて、しょうがないな、といいながら歩きまわる。
 と、思い出しながら、さて今日はどうしようか。

ホテルで借りた、骨の1本が曲った傘をさし、外に出たが、行くところはない。行くところがないときに出かけるのが好き。
 商店も食べ物屋も美術館も、ほとんど全部が完全に休んでいる日曜日。おまけにミラノはここ2、3日、急に寒くなって息が白い。さらに冷たい雨。こんな日はさしもの観光客もホテルで不貞腐れているかしかないだろう。
ミラノ トリノ通りを少し行くと、新聞紙が石畳に張り付き、片方だけの毛糸の手袋が濡れたベンチに捨てられている貧しげな広場。その奥が教会だ。サン・セバスティアーノ。名前は立派だが、観光客など訪れるわけもない古く落ちぶれた教会だ。石造りの建物は見事に黒く汚れ、大きな木のドアは、朽ちかけて、片方はゆがんでいまにも外れそうだ。私好み。入ってみると案の定、無人の椅子が並んでいるばかりで、このひとが神父なのか、構わない身なりの老人が1本1本ろうそくを消して回っている。日曜朝のミサがもう終わっている時間ではない。誰も来てくれなかったようだ。
ミラノ 老人に目礼して、うしろのほうの椅子に坐る。老人は、なにかぶつぶつ呟いていたが、そのまま奥に消えた。ろうそくは半分ほどついている。
 1時間ほどそうしていて、外に出ると、相変わらずの寒さだが雨は上がっていた。少し考えて、西に向かう路地に入った。路地はくねくねと折り曲り、まったくの無人の中どこまでも続く。
 どうやら私はミラノの中心を大きく外れヴィットリア門近くにまで歩いてきたらしい。
 30年も40年も前にこのあたりに暮らし、イタリア人男性と結婚し、その夫に死に別れ、ご自身もしばらく前に亡くなった須賀敦子さん。須賀さんの作品によく出てくるコルシカ書店もこの地区にあった。書店といってもただの本屋ではなく、ある思想、キリスト教に裏打ちされた文学芸術運動の主たちが集まる一種の結社のような場所で、須賀さんの作家としてばかりではない、エッセイスト、文学者、研究者、思想家としてのあらゆる才能、傑作の数々の原点となった場所でもある。
 須賀さんが生前話してくれたことがあった。わたしたちが住んでいたころ、あの辺りはひどいところだったのよ。
 その昔大きな鉄道の操車場があり、そのあとにバラック家屋が建ち並び、ミラノ市の低層市民救済の施設もあり、須賀さんは貧民窟とはいわなかったが、そういったところだったようだ。
 そうだわ、と須賀さんはいった。ヴィスコンティの映画に「ロッコと兄弟たち」というのがあったでしょう。あの背景になった町よ。
ミラノ「ロッコとその兄弟」邦題は「若者のすべて」。アラン・ドロン、アニー・ジラルド、端役でクラウディナ・カルディナーレ。シチリアからオレンジ、アランチャだけを土産に家族そろってミラノにやってきた貧しい一家が、社会の波にもまれながら生きていく姿を描いた名画だった。須賀敦子さんの言葉を思い出し、いまはすっかりきれいになったこの町を改めて眺め、私は思いがけない感傷に包まれていた。
 明後日くらいからシチリアに向かってみようか。