WEEKENDLESS 31
パリはやはり感傷の街
急に思い立ってパリにやってきて、3週間が過ぎようとしている。
今回のように、特に予定も目的もない旅は、のんびり、ゆったりできると思われそうだが実はそうではない。なにもないということは、なんでもあることで、ましてパリではしなければならないこと、行かなければならないところが多すぎてかえって忙しい。南フランスの港町や、イタリアの田舎のように、一日中ホテルのテラスで本を読み、ワインを傾けて過ごすことなどできない。
朝起きて、さて今日はどうしようかと思うと、さまざまなプランが瞬時に頭に浮かび、その整理にしばらくかかる。そして、カフェオレ、クロワッサンのひとときのあと、追い立てられるようにホテルを飛び出していく。
こうして3週間、1日も休まず、行ったことがなかった場所、何度も訪れているところなど、歩き回り、見て回り、聴いて回った。だがその忙しい暇つぶしもそろそろ終わりに近づいてきて、改めて考える。
さて、今日はどこに行こうか。
そして決めたのがルーブルというわけだ。
これまでパリに来るたびに必ず訪れていたし、滞在中幾度も訪ねたこともあるルーブルだが、今回はまだ一度も入っていない。時間はたっぷりあったのだが、なんとなく近寄らないようにしていた。もういいかな、との思いと、行けば必ず巻き込まれるあのひと込み、すみずみまで脳裏に刻み込まれている巨大壮大有名な名画の大群が私をためらわせてもいた。
だが、間もなく帰るとなれば話は別だ。パリに来てルーブルに寄らずに帰るわけにはいかないではないかといった極めて小市民的な思いが湧き起こり、私はホテルから歩いて10分、ルーブル美術館の逆さピラミッドの中へと潜っていったのであった。

予想通りの大混雑。ことに私が歩いたドゥノン翼、リシュリュー翼は夕刻の新宿駅のような賑わい。押すな押すな、はオーバーとしても、うるさいな、大声を出すな、こら、走り回るな、ひとの流れに逆らうな、そんなところで立ち話はやめろ。怒ってばかりの3時間余り。やっぱり疲れてしまった。
ふっと気がついたのだが、日本人観光客が思いのほか少ない。モナリザをどたどたと探して走り回る団体も、美術作品など関係なく、壁際や渡り廊下で抱き合っているワイセツ顔の若者も意外に見かけず、その代わり日本の隣の半島や大陸からと思しきツアー客が渦巻いている。皆さんそろってデジカメ撮影に忙しいが、美術品やルーブルそのものを撮るのではなく、名画をバックに家族、仲間を写す記念写真。ルーブルの名画名作をゆっくり静かに鑑賞することは、永遠に不可能なのだろうな。
というわけでようやく抜け出した私が、次に足を向けたところといえば、そのチョイスにはやはりルーブルが大きく影響していた。ルーブルで、お義理のように前に立った作品たちが、私の次の行動を決めてくれたといってもいい。
まず街角カフェでのカルメシのあと、ポンデザール芸術橋を渡り、狭い石畳の道をのんびり歩いて、着いたところはサンジェルマン・デ・プレ。教会の裏に回り、犬のウンチに気をつけながら路地を抜け、一般民家の小さな入り口を抜けるとそこにひっそりとドラクロア美術館。あのウジェーヌ・ドラクロアが1863年にこの世を去るまでの5年間過ごした家で、寝室も食堂もアトリエもすべてそのまま。嘘のように静かな中庭もドラクロアの時代を残している。
あまりにも分かりにくい場所で、しかも大作中心のドラクロアの有名作品がここには1点もないこともあり、訪れるひとは少なく、昔から私のひそかな穴場のひとつであった。
なぜ急に、久しぶりにここに来る気になったのか。それは、ルーブルでドラクロアの作品、たとえば双の胸丸出しのお先っぱしりお姉さんがフランス三色旗を持って群衆の先頭を走る「民衆を導く自由の女神」、古代アッシリアの王サルダナパールが自らの死に際して多くの愛妾、愛馬をすべて奴隷に殺害させる図「サルダナパールの死」など、人口に膾炙した大名作を観たからに違いない。
ドラクロアのそんなスゴイ作品に接するたび、なぜか、嘘だろう、本当は違うんだろうという思いをぬぐい切れなかった私は、だからこのひっそりとしたドラクロア美術館に来ていたのだ。口直しとして。
ここにはルーブルのように鬼面ひとを驚かす作品はない。あるのは友人を丁寧に描いた作品、妻の横顔をやさしく見つめた小品などが、狭い部屋の壁を飾っているばかり。
ドラクロアは、年老いて身体が弱り、壁画を依頼されたシュルプス寺院に通うためにこの場所に居を移し、毎日シュルプスまで、弱った足をいたわりつつとぼとぼと歩いていたという。
そんなドラクロアを想像するに、彼の孤独が、老いの寂しさが、ひしひしと伝わってきて、私は安心する。ドラクロアは決して自信満々の嫌みな巨匠などではなかったのだ。
いくらか静かな気持ちになった私は、サンジェルマン・デ・プレからまっすぐセーブル・バビロンヌ、さらにはモンパルナスに通じる広い道を歩いていく。
間もなくセーブル・バビロンヌの三角形の公園というとき、うっかり通り過ぎそうになる小道がレカミエ小路。
ルーブルの「ナポレオンの戴冠」や「カナの婚姻」「メデュース号の筏」など、歴史を支える大作に混じってぽつんと飾られた巨匠ダビッドのハートウォーミーな作品「レカミエ夫人」。そのモデルとなった実在のジュリエッタ・レカミエがほんの一時期住んでいたという場所だ。いまは1階が「レカミエ」なるレストランになっているが、これは道の名前からつけた店名で絵とは関係ない。だから前を通り過ぎて、20メートルほど先の突き当りの小さな公園に入る。
観光客などひとりもいない。近所のアパルトマンに住む若母が子供を遊ばせており、きれいな首をつけた大きな飼い猫がゆったりと歩いているばかり。ここのベンチで1時間ほど過ごすのも、昔からの習慣だ。
そもそも「レカミエ夫人」との出会いは、強烈だった。
前にも書いたように、カルチェラタン革命のとばっちりで大学に行くこともかなわず、卒業も絶望的になった頃、私はルーブルでディビッドの「レカミエ夫人」を観た。初めてではなったと思うが、大きな衝撃を受けた。衝撃は、恋ではなかったろうか。
連日のようにルーブルにでかけて「レカミエ夫人」と向き合い、さらにはレカミエ夫人のひととなり、面影を求めてカルニバル・パリ歴史館に通い、いまもレカミエ夫人が眠るモンマルトル墓地にも日参し、彼女が晩年暮らしたというオスマン通りの館の窓を外から見上げて立ちつくしたり、この小さな公園で肩を落として坐っていたりした。
あのころは、パリに来て2年。たまらなく寂しかったのだろうか。耐えられないほどひと恋しかったのだろうか。
明後日くらいには日本に帰ろう。
パリはいま、すっかり秋も深まって、そしてやはり素晴らしく寂しい。
パリは私にとって、永遠に感傷の街だ。