WEEKENDLESS 27

京の残暑、蒲郡の雨  

赤坂の麻雀旅館で卓を囲んでいるときだったか、銀座の文壇バーの片隅だったか、まだ私がそうした世界に生息していたころだから、20年余り昔のことだ。吉行淳之介さんが雑談の中でいった。
「この年になると、きちんとした約束なんかしたくないな。頼まれても、そのうちにとか、気分が乗ったら書くよ、というゆるい約束にしてもらうんだ」
 “もうこの年”になったいま、その言葉を思い出す。
昨年から今年にかけて、2冊の本を上梓した。この“My Books”にも紹介したように「昭和の旅路」第1部と第2部だが、第3部を書くようにといわれ続けている。
 書かないつもりはないが、モチベーションが湧かない。書き始めれば早いのだが、スタート台に立つ気がしない。吉行さんのいう“ゆるい約束”なのかなと思うが、それにしても、そろそろ書き始めなければなとも思っている。
 そんなとき、京都に住む友人から電話が入った。
 「どうして連絡くれなかったんですか」
 このページでも書いたが、2か月ほど前に京都に行った。中村吉右衛門による比叡山奉納歌舞伎観劇のあと京都に回って一泊だけした。暑い日だった。翌日思いがけなく八坂神社の花笠巡幸に出会って、もうけものの気分を味わったことを覚えている。そのときに電話1本かけなかったことをいっている。
 といってそれほど怒っているわけではなく、新たなるお誘い。そろそろはもの季節は終わりだが、これだけ雨が続いているとかえっていいはもがやってくる。どうだ。食べにこないか、という話であった。
 乗らないではいられないではないか。この前の上洛も、はものシーズンまっさかりだったのに、うっかり食べ損ねた。
 そうだ。京都に行こう。こういう決断は早い。私は新幹線の客となる。
京の残暑、蒲郡の雨 なんの話かわかりますか。はもです。鱧。骨切りして湯引き、氷に浮かべて梅肉に和えて。あるいは京の夏野菜と共にはもしゃぶで。ああ、たまらない。
 もうひとつの期待もあった。京都の小さなホテルなら、懸案の作品のアタマくらい書きだせるかもしれない。ゆるい約束も果たせるかもしれない。

新幹線に乗る時は小雨模様だった。予報によると全国的に秋の雨。大荒れの地方もあるだろうとのこと。
京の残暑、蒲郡の雨 京都に降りて驚いた。雲ひとつない。さわやかな秋晴れ、といいたいがそうではない。7月に来たときよりもっと暑い、完全な真夏の炎暑ではないか。タクシーの運転手によると、今朝まで大雨だった。この天気にみんなびっくりしているという。
 約束時間にまだ早いので平安神宮に向かった。あの広い白砂の境内を歩いてみるのもいいかなと思ったのだが、それどころではなかった。灼熱の太陽が地面に反射して、眩しくて暑くて、とてもそぞろ歩きどころではない。
 タクシーに乗るほどの距離ではないので、はも料理の店まで歩いた。
京の残暑、蒲郡の雨 鴨川に直角にそそぐ小さな白川べりに立つ料亭・京新山。昔は小さな小粋な店だったのが、いまは堂々とした大料亭になっている。だが、小部屋で食べた“お昼のはも会席”は、昔ながらのまったりはんなり。このゆるい感じがいいな。ゆるい約束、もいいが。
 午後から大事な会議があるという友人と、そこで別れる。呼び出しておいてなんだ。夜、先斗町あたりでどうだといわれたが断ってやった。
京の残暑、蒲郡の雨 だからといってすることがない。四条河原の南座前からタクシーに乗って京の西、仁和寺を訪ねた。昔、幾度か門をくぐったことがあるが、平成6年に世界遺産に指定されてからは来たことがない。世界遺産はどうでもいいが、好きな寺のひとつではある。国宝の阿弥陀如来坐像はこの時期拝観できないが、名高い庭園を見るだけでもいい。
京の残暑、蒲郡の雨 二王門から白川砂を踏んで大玄関、本坊を背に白書院、黒書院と進むとその先に広がる北庭。ここが私のフェバリットプレース。縁の床に太い柱にもたれて座り、北庭に眼を泳がせる。雨のせいか、泉水はあふれんばかりではあったが静けさを損なうものでもない。
 そっと目を閉じた。なにを書こうか。書き出しの1行はどうしようか。
 なにも浮かばない。心はからっぽ。平安神宮の白砂のように、この仁和寺の白川砂のように、私の心は真白に開けていた。さわやかに、静かに。

京の残暑、蒲郡の雨

仁和寺からまっすぐ駅に向かい、そのまま新幹線に。
 はもを食べて、うたた寝をしただけの京都だった。パソコンは一度も開かなかった。それでいい。

東京都区内行きのチケットだったが、名古屋で降りて在来線に乗り換え、蒲郡にやってきた。
京の残暑、蒲郡の雨 新幹線に乗ってすぐに降り始めた雨景色を見ていて、思いついて携帯電話で蒲郡ホテルにかけた。大雨でキャンセルが相次ぎ、部屋はがら空きだという。
 蒲郡ホテル。明治大正の名残を残す古く由緒ある洋式ホテルだ。私もちらっと参加した映画のロケ地に選ばれたり、ファッション撮影に使われたりしていたが、十数年前火災に遭い、復興したものの経営が変わってしまった。いまは蒲郡プリンスホテル。
 相変わらず狭いロビーを通って入ると、そこは結婚式の相談受付。このホテルの客ではないが、雨で行くところのないシニア観光ツアーのグループがたむろしていた。時代なんですね。
京の残暑、蒲郡の雨 だが部屋は、昔とほぼ同じ雰囲気。少しかび臭いところもいい。
 雨がひどくなれば吹き込むかもしれないが、窓を開き、その前にテーブルを移してパソコンを開いた。
京の残暑、蒲郡の雨 30分のち、私は2階のグリルに降りて、グラスワインを傾けていた。
「小ぶりですが上質なアワビが入りました。ディナーにお出ししましょうか」
 アワビなら、白ワイン。シャブリがいいかな。イタリアンならソアーベクラシコか。2003年物はあるかな。
 ゆるい約束は、またゆるいままに過ぎていく。

京の残暑、蒲郡の雨