WEEKENDLESS 24
フェルメールの人気の秘密、発見
フェルメールがブームだということは、東京都美術館に入ったときにすぐにわかった。いくつもの展示会場があり、いつもならたとえ満員でも、そのそれぞれに別れて客たちがさばけていくのだが、この日だけは誰も彼もが一目散といった感じで奥の企画展示室に向かう。そのほとんどが、普段はあまり美術展などに縁のなさそうなおばさんたち。話題になっているんでともかく行ってみましょうか、といった感じで夏休みの一日、上野に足を運んだ印象だ。
去年、六本木の国立新美術館で行われた、「牛乳を注ぐ女」ただ1点をあれこれと工夫を凝らして見せたフェルメール展でも、45万人もの入場者があったというから、このブームはかなり長く続いている。飽きっぽい日本人にしては稀有なことだ。
フェルメールという17世紀オランダの地味な画家が、一躍ブームになったのは数年前の1本の映画からではなったろうか。クリスティーナ・ヨハンセンの世界デビューとなった『真珠の耳飾りの少女』がヒットし、フェルメールのほかの作品にも脚光が集まるようになった。
その映画をニューヨークで見た私も、ご多聞にもれずメトロポリタン美術館に4点、フリッツコレクションに3点あるだけのフェルメールを、改めてわざわざ観にいったものだ。42年の生涯に、わずか三十数点しか残していないといわれるフェルメール作品のうち7点もがそろっているのはさすがニューヨークだが、日本と違ってその7点の前にひとびとが押し寄せることもないのもさすがニューヨーク。美術ファンがおとななのだろう。
そんなことを思い出しながら、おばさんの渦にもまれるようにして歩いた都美術館だったが、フェルメール展、というのはもしかしたら羊頭狗肉かなとも思える。全部で40点の絵画の中、フェルメール作品はわずか7点。あとはすべてフェルメールが生涯をすごしたオランダの古い街デルフトのほかの画家たちのもの。よく見ると、「フェルメール展」と大きく打たれた看板、ポスターの、その下に小さく「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」と書かれている。確かに、デルフト派と呼ばれる画家の一派はあったのだが、それを見たいと思うのはごく限られたひとたち、専門家たちだけだろう。
いや、嫌みをいうのはよそう。数少ないフェルメール作品を7点も、しかも世界各所から集めただけでも素晴らしいことだ。ニューヨークに7点もある、と讃えたばかりではないか。そして、ここにはニューヨークとはまた別のルートで集められており、ニューヨークからは「リュートを調弦する女」1点しか来ていない。つまり私にとって、不見だった6点もの作品の本物にお目にかかる機会が来たということでもある。
数少ないフェルメールなので、展示7点のすべてが知っている作品なのは当然だが、美術書などではわからなかったサイズの問題や絵の具の古びたさまなどが見てとれて、収穫でもあった。
まず「マルタとマリアの家のキリスト」はスコットランドのエジンバラからやってきた作品。聖母マリアの妹マルタがキリストの足を拭いている絵だが、これはマルタがいつも姉の陰になってばかりいる自分の不運を嘆くのを、甥にあたるイエスがたしなめるという聖書のエピソードを描いたもので、美術史上非常に珍しい。フェルメールの時代は、まさにマルティン・ルターの宗教改革のときだったはずだが、その時代背景を考えると、フェルメールがここでなにをいいたかったのかがわかる気もする。
「ディアナとニンフたち」は、狩りの女神ディアナ(ダイアナ)とそばに仕える女性たちのスナップ風で、ギリシャ神話の一節。
「小路」と題された作品はデルフトの街並みを描いたものだが、道端で遊ぶ子供たちや路地の奥でなにやら働いている主婦など、日常スケッチそのもの。
あと「ワイングラスを持つ娘」「リュートを調弦する女」「手紙を書く婦人と召使い」「ヴァージナルの前に座る若い女」の4点は、窓から斜めに光が差し込む多分同じ部屋で、女性がなにかをしているシーンを切り取った作品で、ここにはないがブームのきっかけになった「真珠の耳飾りの少女」とおなじ流れで、まさにこれこそフェルメール。おばさんたちもこれで満足といった表情だった。
こうして私はニューヨークと東京で計13点のフェルメールと対面したわけだが、なぜフェルメールがかくも一般受けするのか、わかった気がする。
評論家たちは、フェルメールの光の描き方を取り上げ、そこが人気のゆえ、といっているが、それはあくまで専門家としての見方だ。非専門家の私にいわせると、フェルメールの人気の秘密は、彼の絵が持つドラマ性にあり、となる。
同じような室内でモデルの女性を描いても、フェルメールはそこになにか意味を持たせる。女性が意味不明な笑いを見せていたり、泣きそうだったり、なにかを語りかけているようだったり、つまり見るひとの想像を掻き立てる工夫が施されている。だから見るひとははそこに自分なりのドラマを作り上げ、感情移入できるわけだ。
『青い耳飾りの少女』がそうだったように、フェルメールの作品はどれも映画化できそうだ。しかも映画作家ひとりひとりが別の作品を作るに違いない。こういう画家はほかには少ない。例えばゴッホ。ゴッホそのひとの人生はドラマ化できようが、作品そのものは無理だ。「ひまわり」の絵を映画化できますか。
この、いまさらのような発見は、作家としての反省にも通じる。作品に自作のドラマを押し込むばかりではなく、読者にドラマを作らせる、そんな余裕が必要だった。うーん、30年ほど前にこのことに気が付いていたらなぁ。
