WEEKENDLESS 19
歌舞伎座を酔わせた準歌舞伎
いつもなら開演前から広い舞台前を覆い尽くしている縦じまの定式幕がなく、その代わり浅葱(あさぎ)幕というのだろうか、淡い緑か水色一色かの緞帳が歌舞伎座そのものをいつになく明るく染めている。このことだけでも、これから始まる舞台はいつもの歌舞伎とは違いそうだという期待と不安を抱かせる。
7月大歌舞伎、夜の部はともに泉鏡花作の『夜叉が池』と『高野聖』の2本。多くの観客のお目当ては当然『高野聖』で、それもそのはず、坂東玉三郎と市川海老蔵という考えられる最高のキャスティング。歌舞伎ファンでなくともぜひ見たい舞台といえよう。
玉三郎と海老蔵。歌舞伎界のふたりのトップスターが顔を合わせるのだから、さぞや伝統美、様式美にあふれる舞台と思われるのだが、しかし、この夜見せられたのは歌舞伎であって歌舞伎でない。歌舞伎に似てはいるが違う舞台だったのだ。後付けの感想にはなるが、私はこれを“準歌舞伎”と名付けたい。
『高野聖』は原作を読んだひとも多いだろうが、いわば泉鏡花好みの“妖怪もの”、明治時代を背景にしたオカルトともいうべき作品。
高野聖とは、喜捨を求めて全国を旅してまわる修行僧。その若い高野聖・宗朝が飛騨天生峠、山深い里に住む不思議な美女に出会い一夜の宿を願う。美女は快くというよりむしろ進んで世話を申し出る。そのあばら家には美女の夫だというが、口もきけず歩くこともできない子供のような男と、その夫婦の身の回りの世話をする下男がおり、不思議、不気味な家族構成だった。
美女は宗朝に近くの谷川での水浴びをすすめ、なんと自分も一緒に谷に降り、宗朝の衣服を脱がし、みずからも裸になって水を浴び、男の胸にすがりつく。
ようやく誘惑を逃れあばら家に戻ると、馬小屋には暴れ馬が、さらに凶暴な狼や大きなひき蛙、大こうもりなどがなにかを求めて集まり騒いでいた。だがそんな乱暴者たちも、美女が厳しくしかりつけるや、しょんぼりと静まり返る。
どうやら無事に一夜明け、峠を去る宗朝を見送り、美女はひとこと、あなたはきっと立派な高野聖におなりになります、といいふっと姿を消すのだった。
峠を降り、美女への思いを振りきれずに立ち止まる宗朝の前に昨夜の下男が現れる。あの暴れ馬を馬市で売り、その金で立派な鯉を買ってきたという。
「鯉はお嬢さまの大好物でな」
という下男は、美女の数奇な運命を語る。“お嬢さま”は、不幸なさだめから妖術使いとなり、いい寄る旅の男たちを次々にけだもの、蛙、こうもりの姿に変える。売り払った馬は、前日の昼間宗朝がすれ違った富山の薬売りだったという。
「そんなお嬢さまも、お前さんの気高さに打たれて無事に出立させてくれたのだよ」
宗朝は、朝日に向かって手を合わせるのであった。
『高野聖』。玉三郎の美しさ、海老蔵のすがすがしさに、満員の客席は心打たれはしたものの、おしまいまで大きな戸惑い、違和感は隠せずにいた。
まず、歌舞伎特有のかけ声、玉三郎の“大和屋!”も海老蔵の“成田屋!”も、現代風、といっても明治だが、台詞が続く進行に、タイミングはついに見いだせず、まったく聞かれなかった。
かけ声ではなく拍手が送られてはいたが、歌舞伎座に通いなれたひとたちにとって、それは意に反することではなかったろうか。
特に最後の、下男の長台詞。名演技と思われるのだが、終わったあと誰も声をかけない。拍手もない。仕方なく私が最初に手を叩き、ようやく大拍手を送ることができた。こういった状況では、オペラで鍛えた“アリアへの拍手”の完成が役に立つ。そう、これは歌舞伎というより、歌のないオペラともいうべきではないか。
『高野聖』が歌舞伎ファンに戸惑いで迎えられたのには理由がある。この舞台を見たことのあるひとはほとんどいないのだから。
前回の『高野聖』公演は、なんと昭和29年。54年ぶりでは誰も知らないのも当然だ。知ったかぶりの私でも、今回調べて初めて知った。
前回の『高野聖』は、妖術使いの美女、玉三郎の役を中村扇雀、いまの人間国宝、坂田藤十郎。海老蔵役は、七世坂東三津五郎、当世三津五郎の祖父でフグを食べて亡くなった名優だ。さらに驚くのは、白痴の夫にあの市川雷蔵がまだ映画スターになる前に扮していたこと。
当時、扇雀の美女に、女優よりも美しいとの評判がたったという記録が残っており、もちろん背中だけだが水浴びにシーンで見せる“ヌード”は大いに話題になったという。
だから今回も玉三郎の“ヌード”に期待は集まったようだが、見えたのは海老蔵の上半身と玉三郎の肩口だけの裸身だった。
珍しくも素晴らしい『高野聖』ではあったが、私にはもうひとつの舞台、やはり泉鏡花作の『夜叉が池』も強く印象に残った。
物語はやはり“妖怪もの”で、旱魃に対する人身御供、生贄にされそうになり自ら命を絶った鐘つきの女房・百合の復讐に、近在の妖怪たちが集まって大洪水を起こし村を全滅させるというもの。
この百合に扮するのが市川春猿。なよなよした女形で、テレビのバラエティ番組などで歌舞伎に先行して人気者になっている若手だが、はっきりいってお江戸の舞台で主役を張るほどの身分ではない。大抜擢で、猿若としても身の引き締まる思い、天にも昇る気分ではなかったろうか。そして春猿、見事に演じ切った。こうして新しいスターが生まれたともいえる。
このようなレベルの女形が、プリマドンナを張れるところもまた、準歌舞伎ゆえ、ではなかろうか。習慣的だった歌舞伎鑑賞が、新たな感慨をもたらしてくれたひと夜でありました。