WEEKENDLESS 14

     『椿姫』と『トラビアータ』の奇妙な関係

新国立劇場の『トラビアータ』に行ってきた。
 これが思いがけない大収穫。
トラビアータ  主役ヴィオレッタのエレーナ・モシュクは、主にドイツで活躍するプリマドンナ。恋人役アルフレードのロベルト・サッカと、その父ジェルモン役ラード・アタネッリも、ヨーロッパでは知られた名前だ。しかし、この主役3人以外はすべて日本人、ということなので、さほどの期待は持っていなかった。
 トラビアータ 今回更新する羽仁未紗の『VIVA OPERA』にも書いたことだが、オペラの俳優歌手はみずからの容貌、体型にも責任を持つべきだ、と思っている。  
  だから、このようなパリを舞台にしたオペラに日本人がたくさん出るのはどうかなという気持ちもあった。そんなことをいっては、日本のオペラはどうすればいいのか、という話なのだが、本音をはそうなる。
トラビアータ  というわけで、あまり期待はしていなかったし、事実舞台上の華やかなパーティに遊ぶ貴族が“世界のナベアツ”だったり“泉ピン子”“久本雅美”だったりしたが、それが気にならないほどよくできた舞台ではあったのだ。
トラビアータ  特にヴィオレッタ、エレーネ・モシュクがよかった。結核病みにしては元気いっぱいではあっても、悲しくうたい上げるコロラチュールは、つい涙ぐみたくなるほどの素晴らしさ。このディーバを招いたのは誰の功績なのだろうか。
  と、褒めたあとで少しいいたいことがあるのです。

トラビアータ『トラビアータ』を観るたびに不思議に思う。    なぜ日本では『トラビアータ』に『椿姫』なるタイトルをつけるのか。『トラビアータ』と『椿姫』はまったく別の作品なのだから、和訳の問題ではなく違う作品の名を持ってきたとしかいえない。
  確かに『トラビアータ』の原作はデュマ・フィスの『椿姫』。フィス(fils)とは息子の意味で、アレキサンドル・デュマの息子、小デュマのことで、『三銃士』『モンテクリスト伯』などの大デュマ、デュマ・ペール(ペール・pereは父の謂)、アレキサンドル・デュマと区別される。
  トラビアータデュマの息子のほうが書いた『椿姫』、原題は「LA DAME aux CAMELIAS」は「椿の夫人」か、内容から「椿屋敷の女性」とでも訳すべきなのだ。  
  この『LA DAME aux CAMELIAS』に感動して、ヴェルディがオペラ化したわけだが、そのときのタイトルが『トラビアータ』。
  『La Traviata』には“椿”なる言葉も意味はなく、“道をはずれた女性”“不道徳な女”でしかない。だからこのオペラを日本で上演するときには、“トラビアータ”のままか、どうしても日本語にしたいのなら、ストーリから考えて“恋人を裏切った女”(道を誤った、ということを、ヴェルディはこの意味で使っている)とでもするべきだった。それではタイトルにならないか。
  だが、タイトルだけの問題ではない。
  トラビアータほとんどの解説書、ガイド書が、ヴィオレッタを“高級娼婦”としており、そんな“悪い女“に惚れたのが、お坊ちゃんのアルフレード。彼の純情にさしものヴィオレッタも心動かされ、清らかな愛に生き、アルフレードのために身を引こうようとするも、結核に冒され、死んでいく。このように紹介している。 
  だが、なにを証拠に“高級娼婦”というのか。
  原作では“コルティジャーニ”。これを“高級娼婦”と訳している。だが “コルティジャーニ”は決して“娼婦”ではない。正しく訳すなら“宮廷女性”“社交界の女性”。中には“娼婦”のような女性もいたかもしれないが、だからといって“コルティジャーニ”を“娼婦”と訳すのはあまりというものだ。百歩譲っても“社交界の花形”。『トラビアータ』の中でも、ヴィオレッタが身体を売るような状況はまったくない。
トラビアータ  “コルティジャーニ”は“宮廷女性”だというもうひとつの証拠は、海外で翻訳、研究されているわが紫式部『源氏物語』や清少納言『枕草子』が“コルティジャーニ文学”とのジャンルに入れられているからだ。紫式部や清少納言は娼婦ではないでしょう。
  “コルティジャーニ”イコール“娼婦”説は、同じオペラ『ホフマン物語』や『ジョコンダ』にも表われており、そのたびに私は「違うだろ」とブーイングを飛ばしているのだが、ここに感じられるのは、日本特有の儒教精神、あるいは仏教的な因果応報思想。
 トラビアータ オペラがもともと大衆芸能である以上、ハッピーエンドよりも悲しい結末が喜ばれる。だから多くのヒロインや恋人たちは死をもって幕を降ろす。『アイーダ』『トスカ』『ラ・ボエーム』『ルチア』『蝶々夫人』『カルメン』。
  ところが、オペラをありがたい舶来の(!)芸術作品と思い込みたいひとたちは、大衆の好みには思いをいたさない。この女性が不幸な死を迎えるのは、多くの男の心を迷わせ、彼らの犠牲の上に贅沢で華やかな日々をエンジョイしてきたからだ。その報いで不幸な死を迎えた。だから“コルティジャーニ”は娼婦でなければならない。
  因果応報思想というか、これは一種の嫉妬ではないだろうか。
  “高級”を付けてあげても、失礼さには変わりはないよ。

 などという話を、休憩時間、ロビーで赤ワインを立ち飲みしながら連れの女性に知ったかぶりしてみたのだが、あまり聞いてもらえなかった。
  だが、だからといってこの夜の『トラビアータ』が素晴らしかったことには変わりはない。

(オペラ鑑などで舞台撮影が禁止されているのはしかたないので、いつもパンフレットなどから借用するのですが、今回は偶然、羽仁未紗が『VIVA OPERA』で『トラビアータ』を描いてくれたので、その絵の中から少し拝借しました。)