佐山透

老人と湘南の海

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 至近弾が多い      

    

その年の卒業生だけなので、同窓会ではなく同期会というべきだろう。

そんな同期会の名簿が送られてきた。しかも中学校の。

中学を卒業したのが15歳だから、なんと56年も前の話だ。そんな時代があったことさえ忘れかけている。

至近弾が多い同窓会、同期会、クラス会といったものはあまり好きではなかった。昔を振り返って、懐かしんで、それでなにになる。そう思っていたので、中学も、高校も、そのような集まりには出たことがない。いや、高校時代に仲のよかった文学青年だった教師が亡くなった翌年のクラス会にだけは、お悔やみを兼ねて出席したが、それ以外にはない。

大学のそうした集まりにも出たことがない。それでも10年ほどは、なにかの理由を付けた寄付のお願いのような手紙が来ていたが、こちらがあまりにも無視を押し通すので、そのうちお願いレターも来なくなった。いや、私のほうがしばしば引っ越しをするのでトレースできなくなったのかもしれない。

さらに私がヨーロッパ、アメリカと移り歩くようになって、そのような“過去”は完全に消えたようだった。

そんなときに、半世紀ぶりに届いた同期会の名簿。よく住所がわかったな、と思って細かく見ると、その名簿は学校が発行したオフィシャルなものではなく、Kという卒業生が自分で調べて、ワープロで打って、プリントアウトして送ってきたという、私信に近い名簿だった。別紙に、
『大変ご無沙汰しております。Sさん(私の本名)のご本はほとんど読ませていただいています。』

ときれいな字で書かれていた。

ということは、私の動きはずっと追われていたわけで、うれしいというか、なんというか。

しかし、このKさんを私は少しも覚えていない。私に心を寄せる女子のひとりだったのかな、とも思うが、あのころの私、白皙の美少年。人気者だったからな。とは、誰も反論のしようのない、根拠もない自慢。

それはともかく、なぜいまごろになって、と考えてみるに、同級生だから同じ年だ。還暦プラス1ラウンド。もう先があまりなく、あるのは昔ばかり。そんな老婆がいまわの際に遠い過去を振り返って名簿を作ってみた、ということだろうか。

昔には興味がない、と思い、暮らしてきた私でさえ、ここ数年は昔話ばかり書いているではないか。

そう気づいて改めてその名簿を見ると、覚えている名前がちらほらあったし、ああ、そういえば、と思い出す同期生もいた。Kさんという元少女を知らない、といったが、当然名簿にはKさんの名前も載っていて、そのうしろに(旧姓・M)とあり、そうだったのか。思い出した。なんだ、N子ちゃんではないか。私のテニスの試合に応援に来てくれたあの可愛い子だ。えーっ、N子ちゃんも71歳。ウソッ。

そしてもうひとつ驚いたというか、気づかされたことがある。

私たちの中学は、ひとクラス40人。3クラスで1学年。つまり同期生は120人いるのだが、その名前が50音順に並んで80人足らずで終わり、その下にまた新しく50音順の名前が数十人連なる。

新しい数十人に付けられたカテゴリーは“物故者”。

そうなのだ。同期生の約半数は、すでにしてこの世にいないということだ。

この名簿は“生存者リスト”とでも呼んだほうがいい。

そんなことをつくづく、しみじみ考えさせてくれた手紙でありました。

 

それにしてもこのところ、旅立っていってしまったひとが多い。

至近弾が多い至近弾が多くなったといっていたのはある先輩作家だが、彼は私たちよりひと世代年長だ。至近弾を意識する年代は10年ほどは続くのだろうか。そしてあるときその弾丸が命中する。

私がそれを感じかけたのは、少し遅いかもしれないが15年ほど前。ニューヨークに移る前で、まだカリフォルニアのパームスプリングスに住んでいたころだった。

アメリカに行く前のさらに10年間ほど、私はほぼリタイヤ感覚でゴルフに関する文章を多く書いており、そのつながりで日本のある雑誌から連載の依頼が来た。『ゴルファーの墓碑銘』という感じで、私がつきあっていて、そののちに亡くなったゴルファーを。プロ、アマ問わず振り返って、人物論、人生論、回想記を書いてほしいというものだった。

そういわれてみて、私が日本を離れたのちに亡くなったゴルフがらみの友人、知人がかなりの数いることに思い当った。

たとえば大学出のプロゴルファーの先駆け的役割を果たしていた城村克身。相撲出身の蔵間。アマチュアゴルファーの頂点に立ち続けていた中部銀次郎。ゴルフクラブ造りでクラブ評論家でもあった保国隆。敬称略で並べたが、みんな親しくしてくれて、ともに遊び、ともに飲み、語り合った仲間たちだった。

その仲間たちの話を書こうか。そう思ってアトランダムにノートに書きだしているうちに、気が変わった。この仕事は断ろう。

付き合っていたころがあまりにも素晴らしく、いい思い出しか残っていない。思い出は、胸の内にだけしまっておこう。そう思ったのだ。

この判断は、いまも正しかったと信じる。猫のミンミンの話を書き、出版したのち、私に改めて襲いかかってきた痛いほどの悲しみ、悔やみを、15年前に知ることになったはずだ。

 

6年前に日本に帰ってきて、すぐに告げられたのは久世光彦さんの死であった。おまえさんなぁ、というちょっと巻き舌な優しい話し方を思い出す。久世さんの死に立ち会うために帰ってきたようなものだった。

 

そののちもいくつもの至近弾が落ちてきたが、最近では私が芸能界に片足を掛けていた時代の仲間がふたり、続けて去った。

原田芳雄。入川保則。ふたりとも私と同年だ。どちらともよく飲んだ。

私が松田優作を批判したときに、あの無口な原田がきわめて雄弁に優作を擁護したこと。私が当時付き合っていたある女優と仲たがいしたと話したとき、少し酔っていた入川が、佐山ちゃん、それはいかんよ、と不意に涙を流したこと。

ひとのために怒り、ひとのために涙することができる。そんなふたりだった。

 

至近弾が多いちょうど10歳年上だが、二谷英明も逝った。

私が台本を書き、二谷が読み、演じるというラジオ番組の中で、フランス語の曲紹介が必要になり、フランス語のコーチのつもりで私もスタジオに入ったところ、前夜じっくり練習してきた二谷は、私などよりはるかに鮮やかな発音で読んだ。余計なことをしなくてよかったと思ったものだ。

 

昨年末に、私は遺言状を作った。

これまでのように、残ったひとへ、ああしてください、こうしてほしいという“お願い”ではなく、司法書士を通じて作成した正式な遺言状だ。

通夜も葬式もしない。寺も墓も戒名もいらない。遺骨は散骨。できればパリのモンマルトル。坂道の側溝。できればミラノの、できればニューヨークの、といいたいが、無理なら葉山の海でも構わない。そんなことも、付記として書いた。

 

56年前の同期会名簿を見て、こうしたとりとめにない思いにふけっている私のそばで、プーリーとドゥージーが身体を寄せ合って眠っている。こいつらのために、まだ逝けないな。

 


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