


ベン・シャーン発見伝
葉山に越してきて1年余り。その間、葉山というより湘南から外に出ることはほとんどなかった。
葉山に住んでみると、どこかに行きたいという気にはならなくなりますよ、とは、葉山新人時代、やはりこの地に移ってきた先輩住人にいわれた言葉だが、まさにその通り。すっかり湘南人種、葉山族になってしまっている。
日常的な食事には、こじゃれたレストラン、料理店がいくつもあるし、イエメシのための食材選びには、元町ユニオンを始め高級なスーパーマーケットがあるし、海辺の魚屋をのぞけば今朝上がったばかりの魚介類が並び、丘の八百屋に行けば名高い湘南野菜の採れたてが輝いている。
三浦半島の背骨を超えて横須賀に下ればホームセンターや大型ショッピングモールが立ち並ぶし、少しお洒落をしたいなら横浜まで足を延ばしてもいい。
といっているうちに、辻堂に駅と直結した巨大ファッションモール、テラスモールがオープンした。いいブティックなんかが少ない、と文句をいっていた未紗もそれ以来静かになった。第一、お洋服など毎週買うものでもないだろう。
それはともかくとして、ここに来て東京時代と大きく変わったのは、美術館巡りがなくなったことだ。
以前は週に1度は、上野、六本木、そのほかと、美術展を求めて出かけていたのだが、ここには“巡る”ほどの美術館があるわけでもなく、第一地元の美術館は地元出身、あるいは在住の画家の作品が中心になっていることが多く、しばしば出かけていくところでもない。
だからといって、私たちが欲求不満になっているかといえばそうでもない。美術館は、実は家の中にもあったのだ。
テレビの、特にBS放送には「世界の美術館」「(たとえば)エゴン・シェーレを訪ねて」のような番組が数多くあり、ここまで専門的なのか、と思えるすぐれたものも少なくない。そうした番組を録画しておいて、ストップ、リヴァースを掛けながらじっくり鑑賞すれば、混みあった美術館歩きよりはるかに堪能することができる。
だから、美術館巡りができなくても平気だよ、といくらか強がっている私たちにある招待状が届いた。
送り主は、神奈川県立近代美術館・葉山。うちから歩いて15分の、まさにご近所美術館だ。越してきてすぐのころ、とりあえずメンバー登録をしておいたためのご招待だった。
「ベン・シャーン展」正しくは「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」展にどうぞ、というもので、ベン・シャーンの名前くらいはもちろん知っているし、アメリカ時代、ことにニューヨークにいた5年間には幾度かはその作品に触れたことがあるだけで、そのひと、その作品にさほどの関心も興味もない私たちだったが、招待を受けていそいそと出かけていったのであった。
ベン・シャーンがうれしかったのではなく、美術館に行くのがうれしかったのだ。そうか。やはりいくらか欲求不満はあったのか。
ベン・シャーンを知っている。作品を見たこともある、とはいったものの、ではベン・シャーンとはどのような芸術家か。どんな作品を残しているか、となると、恥ずかしながらほとんど知らない。
観た記憶の中での作品のいくつかにも、その間の関連性、作者の主張、個性、生き方といったものを感じることはできなかったし、第一、ベン・シャーンの代表作はなにか、という問いにはまず答えることができない。
そのベン・シャーンの作品を200点余り、写真画像を300点余り、まとめて観ることができ、最後に感じたのが、代表作のないことがベン・シャーンなのだ、という結論。これまでベン・シャーンの代表作を知らないと思っていた私は、だから正しかったのだ。ないものは知らない。
広い展示会場に入っていの一番に目に飛び込んでくるのは「ドレフュス事件」と題された数点の絵。
といっても事件を描いたものではなく、ドレフュスそのひとの肖像画や、ドレフュス裁判の検事、判事、証人たちの肖像画だが、なぜこれらがこの美術展のトップに来るのか。
ドレフュス事件とはいうまでもなく第三共和制下のフランスを揺るがせた大きな政治的スキャンダル。陸軍大尉ドレフュスが敵国ドイツに情報を流した罪で終身刑を受けたものだが、これが濡れ衣で真犯人は別にいた。要するに軍部の内部抗争の被害者、人身御供となったわけで、流行作家のエミール・ゾラが政府を弾劾する作品を発表したりもした大事件。そしてその背景にはドレフュスがユダヤ系フランス人だったことが大きく原因していた。
つまり当時ヨーロッパ全土に充満しかけていたユダヤ人排斥の機運が生んだスキャンダルでもあったのだ。
その事件の人物の肖像画が、ベン・シャーン展のトップ。
もちろんベン・シャーンがドレフュス事件に関係していたのでも、取材したり、直面したのでもない。そもそも時代が百年も違う。
では、なぜ?
その答えは、アメリカ人ドレフュスが、実はいまのクロアチア生まれのユダヤ人だということにある。ニューヨークが“ジューヨーク”といわれるほどユダヤ人種が多く住む都会であることは知られているが、ベン・シャーンもそのユダヤ人移民のひとりであったのだ。ユダヤ人であることが、ベン・シャーンの原点であり、彼の作品群はここから出発している、はずだ。
だが、原点であり出発点でもあるこのことから、ベン・シャーンは意外にあっさりと外れていく。
ここから続く作品群は、報道写真家としてのベン・シャーンが、みずからの社会事件撮影写真を下敷きにして描いた水彩画であったり、やはり写真由来の水彩、テンペラ、油彩で、1929年に起こった世界大恐慌下のニューヨーク、あるいはオハイオの街角、労働者、市民たちを描いたものであったりする。
そうかと思えば、ニューヨークの街にビルに描く壁画のための習作。雑誌「ニューヨーク」から依頼された挿絵のためのデッサンなど、本来なら発表されるべきものではない作品(?)がえんえんと並ぶ。
さらには、フィラデルフィア交響楽団の演奏会のためのポスターや、彼がデザインしたそのレコードジャケット。モダン・アメリカン・ミュージックという、当時のヒット曲集のレコードジャケット。リサイタルの入場券。
もっと進んで、「マルテの手記のためのイラスト」はある意味マティス風のシンプルなデザインのシリーズだが、いうまでもなくドイツ人のリルケが、パリの下町に住む貧しい詩人マルテの名を借りて描いた長編詩小説を基にしているが、なぜベン・シャーンが?
そして出会うのが“ラッキードラゴン”と名付けられた写真の群れ。なにかカンフー映画めいたタイトルだが、ラッキードラゴン、訳して“福竜”。そう、ビキニ環礁の原爆実験で被曝したあの“福竜丸。その船の撮影のためベン・シャーンはわざわざ日本にやってきた。
こうした行動のためベン・シャーンは“反戦芸術家”として、主に日本の左翼、反戦運動家グループに担ぎあげられたこともあったようだが、ベン・シャーン本人はそののちそののちあっさりと身をひるがえして、香港、シンガポール、バリなどの観光旅行を楽しんで、運動家グループに小気味いい肩すかしを食わせた。
このように数多くの作品、作品以前のものを見て歩いて、残ったのは取りとめのない疲労感と、いままでわからなかったベン・シャーンの実像を感じることができたというわずかな満足感。
ベン・シャーンを初めて理解できた気がする。
ベン・シャーンに代表作はない。
ベン・シャーンはその生涯、数多くの変節、変身を繰り返してきた。
だがその人生で、ベン・シャーンは常にジャーナリストであり続けた。芸術家であり続け、表現者、発表者であり続けた。つまり、ベン・シャーンであり続けた。
だから、結論が出る。
ベン・シャーンの代表作は“ベン・シャーン”であった。
