佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 8     

新しい世界の始まりだ

新しい世界のはじまりだ

この分野に、若葉マークなる愚かしいシステムがないことに、改めて安心した。そうでなければ、これからの私は、いかにもベテランのような顔と、それらしいファッションで、若葉マークを貼った船のステアリングを握っていなければならなかった。よかった、よかった。

ようやく免許証が届いたのだ。

新しい世界のはじまりだ届いたというより、郊外で行われたある集会で、講演ともいえないおしゃべりをしていたその最中に、ポケットの中の携帯電話がぶるぶると震えた。音が出なくてよかったが、なんとなく落ち着かない気分のまま話を終え、演壇から降りて電話を見ると、勝どきマリーナ、とある。ああ、そんなこともあった、と、折り返しかけると、聞き覚えのある女声が弾んだ。

「おめでとうございます。今日免許証が届きましたよ」

小林里美ちゃんだ。勝どきマリーナのインストラクター。私にボートの操縦や法規などを教えてくれたお嬢さん。

この電話があるのを忘れていたわけではないのだが、この言葉を待ってはいなかった。電話がきても、残念でした、再試験の予約はどうしますか。というものだろうと思っていた。つまり、諦めていたのだ。

そうだったから、驚きは喜びに代わり、集会のあと関係者との飲み会が予定されていたのを、車ですから、と断り、私はいちもくさんという感じで、都心も都心、勝どき橋近くの運河に面した勝どきマリーナに駆けつけたのであった。

新しい世界のはじまりだにこにこして免許証を渡してくれる小林里美ちゃんの、以前にもましての可愛らしさ。輝いていたな。

そしていま、こうしてピカピカの船舶免許が私の手の中にある。

 

ボートを始めようかな、とぼんやりと思うようになったのは、3月末にトヨスに越してきてからのことだ。

移る前も、そして移ってからも、トヨスという街は、東京で最も新しい街であり、不思議に浮世離れし、緩やかに隔絶され、それでいて都心には限りなく近く、といったいくらかとんがった感覚の街だと思っていた。それはその通りでもあったのだが、もうひとつ、トヨスが海の街だということに改めて思い当ったのだった。

地図の上では東京湾にぐっと近いが、自宅の窓から海ははるか遠くにかすんで見える程度。埋め立て地だというが、そんなことをいえば東京のほとんどが江戸の昔の埋立地だ。海辺意識はあまりなかった。

ところが、書斎で机に向かっているとき、リビングルームでテレビを見たりオーディオを聴いたりしているとき、テラスに出て風を受けながらビールなど飲んでいるとき、視線をぐっと下に向けると、そこに流れているのは豊洲運河。運河を見下ろす目をずっと南に移すとその先に海が広がっている気配が感じられる。

そうか、ここは海の街でもあるのだ。運河は、川ではなく海の一部なのだから、と、そんななにやら得をしたような気持ちになる。

新しい世界のはじまりだ豊洲運河を見下ろす私の目の下を、かなりの頻度で小型船が通りすぎていく。大きな板を浮かせたような工事の船。タオル鉢巻の男たちを乗せた小型漁船。夕方には周囲にランタンか提灯をめぐらせた宴会舟。そうした中に混じってときどき行き過ぎるのは、禁じられているはずのかなりのスピードで、航跡も鮮やかに駆け抜けていく白いボート。センターより少し後部に小さなキャビン、操縦室を乗せたものもあれば、いわゆるオープンカースタイルの平たいものもある。前者がプレジャーボート、後者がスピードボートと呼ばれることはあとで知ったが、そんな遊びの船を見ていて、私の心は揺れた。あんな船で、私も遊びたい。

新しい世界のはじまりだ思い立ったらすぐに実行に移すのは、私のいいところか欠点か。多分あとのほうだろうが、私はさっそくインターネットで“ボート”を調べ、“船舶免許”“マリーナ”を検索。トヨスに一番近い勝どきマリーナに出かけ、その日のうちに受講の申し込み。受講、受験用の参考書、問題集を購入したのであった。

新しい世界のはじまりだスクール、マリーナによって違うそうだが、この勝どきマリーナでの受験の段取りとしては、船舶構造、法規などの学科の講習が丸一日、1週間のちに違う場所で、ほかのいくつものスクール、マリーナからの受験生を集めての学科試験。これに受かっても落ちても、さらに1週間のちに今度は実際に海に出ての実技講習。5時間ものあいだボートを走らせ、疾走、蛇行、人命救助、離岸、接岸、ロープワークなどをぎゅうぎゅうに詰め込まれ、また1週間たって、今度は江戸川べりのマリーナを出発して海上、会場の実技試験。
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どこに行ってもぶっちぎりの最年長。じろじろ見られたり、試験官のエライさんに間違えられたりしながら、それでもめげずにクリアし続け、このハレの日を迎えたのであります。
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といいたいところだが、まさか本当に一発でパスするとは思わなかった。だってさ、ボートを岸から押し出して、エンジンも掛けずに「離岸完了!」などと叫んでしまったし、自分たちがすでに身につけているのを忘れて「ライフベストが足りない!」といってしまったし、人命救助のつもりのブイを拾い上げるときには、1度でできずにやり直したんだぜ。こんなことで受かるとは、船舶免許試験なんて簡単なものだな。などというと、落っこちたひとたちに申し訳ないかな。

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こうして免許所を手にしたいま、つくづく思う。1回でパスして本当によかった。もし再試験ということになったら、熱しやすく冷めやすい私としては、もういいや、と諦めて権利放棄していたかもしれない。

合格して、熱は冷めるどころかますます熱くなり、いま私はボートを買おうかどうか迷っている。いや、多分買うでしょうね。あらゆる反対、妨害にあっても。駄々をこねる子供のように。北朝鮮のように。

新しい世界のはじまりだ窓の下を過ぎていたスピードボートがいいかプレジャーボートがいいか。それともさらに大きくゴージャスなクルーザーにしようか。インターネット、ボート雑誌、電話を駆使していくつものマリーナ、メーカー、ディーラーからカタログを取り寄せ、横浜、横須賀までも実際に見に行って、そのたびに心はぐるんぐるんと動き回って、連日疲れ果てている。

おまけに、なにごとも形から入りたい身としては、海に出るときにはなにを着て出ようか。キャップは? シューズは? サングラスは? どこかのマリーナのメンバーになるのだろうが、そのクラブハウスではやはりブレザーに白いパンツかな。

あと数日で、結論を出します。

 

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