佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 4     

薩摩切子はヴェネツィアングラスか

1年余り前、この連載エッセイを始めるにあたって、自分にある枷をかけた。政治向きの話題、意見、そしてそのとき世間をにぎわせている事件なりできごとについてはまず触れないようにしよう、ということだ。

しかし、しかしですよ、そうはいかないようだ。

パンデミック。そう。豚インフルエンザ、新型インフルエンザ、などといわれているあれ。どこか遠いところで悪い病気が流行っているというのなら、お気の毒に、ですませたい。社会派気取りで立派なことはいわない。が、こればっかりは暮らし、生活にモロに関わってきたので、さすがになにかいわなければならない。といっても、医者でも研究者でもない私には、ただ、困ったな、というしかないのだが、ああ、困った、困った。

ゴールデンウィークにどこかに出かける、という発想は昔から、ない。だから海外旅行でたくさんのキャンセルが出たとか、決死の面持ちで出かける家族連れの姿などを知ると、ほら見たことか、とも思う。連休は自宅かせいぜい御近所でのんびりだらだら、本を読んでいるか、音楽を聴いているか、天気が良ければ外に椅子を持ち出してビールなりスプマンテ。バカンスとはなーんにもしないことだよ、諸君、などとうそぶいていたい。

けれどもいまそんなことをしていたら非難轟々は見えている。この非常時をなんと心得る。貴様それでも帝国軍人か。

実は、連休明けにフランスかイタリアか、あるいはそのどちらも、かに出かけようと思っていた。南フランスかジェノワあたりの海で、レンタルのモーターボートで練習を兼ねて遊んでみようか、と企んでいたのだが、それこそ、バカといわれるのは見えているので、これもやめました。

だから、おじさん、することがない。

 

電車、地下鉄は危ないそうだから、車に乗って六本木に出かけた。
薩摩切子はヴェネツィアングラスか

ひと込みは避けるように、とテレビなどでうるさくいっているのにさからうようだが、六本木はミッドタウン、サントリー美術館で「まぼろしの薩摩切子」展が開催されているので、これを無視するのもなんだし、という気分だった。

“切子”とはムカシ弁でガラス細工、ガラス器のこと。それほどの関心も興味もなかったのだが、数か月前に蔵前の大江戸美術館での「薩摩焼」展を見て、その思いがけない美しさ、ヨーロッパにも通ずる優美、典雅を感じさせられ、同じ薩摩ならこちらも素晴らしいのではないか、と恐る恐るのおでましだ。

だが、多くのひとが同じ不安を抱えているためか、マスコミがあまりにも怖い怖いと煽り立ててくれたせいか、サントリー美術館、厳重にマスクをしたおばさんたちがちらほらするばかりで、拍子抜けするほど閑散としていた。展示品の多くがガラスケースに入れられて、弱い照明の中に浮かび上がって見えるという展示構成なので、なおさらひんやりとした静謐感があって、ああ、これは来てよかった。ほっと安心したものだ。

 

肝心の“薩摩切子”は、というと、よかったよ。よかったですけれど、うーん、どういったらいいのか、いくらか期待とは違っていたというべきか、こういうものだったのか、が強かった、といっておこうか。

撮影禁止だし、こっそりシャメしてもライティングやガラスケースの反射でまず写らないだろうから、購入した絵葉書で見てもらうしかないが、どことなく野暮ったいといえばいいすぎか、重たい感じがしませんか。
薩摩切子はヴェネツィアングラスか

私が間違った先入観を持っていたのかもしれない。どこかで、“薩摩切子”は “東洋のヴェネツィアングラス”だ、と読んだ記憶が残っていたのかもしれない。美しい街並みを見たらどこでも“東洋のパリ”“南米のパリ”といって済ませていた昔の兼高かおる風なほめ言葉なのだろうが、“薩摩切子”に“ヴェネツィアングラス”を見出そうとしたのがいけなかった。どちらがいい、というのではなく、比較するのが無理な、別世界のもの。そういったほうがいい。
薩摩切子はヴェネツィアングラスか

ヴェネツィアにはなん回も旅してきて、ときには長期に滞在もして、そのたびに町の商店で、あるいはわざわざ制作工房を見学して、ヴェネツィアングラスを見て、手にして、そのあまりにも華美で優雅で華奢で、そして高価な品々にため息をついてはきた。素晴らしいのは事実だが、これはうちには合わないな、ちょっと趣味と違うな、などといっていたのは、正直やせ我慢。お土産品ならともかく、ほんもののヴェネツィアングラスは、とうていわれわれが手を出せるものではなかった。

薩摩切子には、その“華美で優雅で華奢で”がない、とはいわないが少ない。弱い。ヴェネツィアングラスの恐ろしいほどのデリカシー、もっといえば、なにかとてつもない不幸を運んできそうなまがまがしさ、不吉なきらめき、それがない。

なぜだろうか。そう思ってもう一度展示品の最初から歩いてみてわかった。
薩摩切子はヴェネツィアングラスか

順路の初めのいくつかのケースに納められているガラス器たちは、“薩摩”ではなかった。“薩摩”に影響を与えた品々で、ヨーロッパから渡ってきたガラス器が並べられていたのだ。

その出自を見て納得した。イングランド、ボヘミア、ババリア。そんな国の名が連ねられている。18世紀、19世紀。イタリアではヴェネツィアングラスがとっくに最盛期を迎え、過ぎていた時代であるにもかかわらず“薩摩”はそれに目を向けてはいなかった。

しばらく前に見た“薩摩焼”がフランスの影響を強く受けていたのに、“薩摩切子”はなぜイングランドでありボヘミア、ババリアなのか。ヴェネツィアには気付かずにいたのか。イングランド、ドイツといった列強にしか関心が持てなかったのか。

“薩摩切子”に私が感じた野暮ったさ、重さのわけはここにあった。模範にする先生が違えば、できる作品も違うという当然の結論だったようで、私の好みがアングロサクソン、ゲルマンには向かっていないことの再発見でもあった。

 

複雑な気持ちでミッドタウンを出た私は、5分間だけステアリングを握って、六本木ヒルスの駐車場に滑り込んだ。

お目当てはここの52階、ヒルス美術館で開催されている「メイド・イン・カッシーナ展」。お目当て、とはいったがそれほど熱心な話ではない。六本木に来たついでに、といったかなりいい加減な発想だったが、ときにこのいい加減さが思いがけない発見に通じることもある。
薩摩切子

カッシーナという画家か彫刻家がいるわけではない。カッシーナは、好きなひとならだれでも知っているイタリアの有名な家具メーカーで、だからこれはメーカー開催のプレゼンか自社展示会といった催しなのだ。本来なら料金を取って見せるものではないはずだが、それでもしっかり1300円。カッシーナが強気なのか、ヒルスがなんでも商売にしているのか、あまりいい感じではないが、会場をめぐってみて、不満はいくらか解消された。
薩摩切子

ご存じル・コルビジュエ、ロドルフォ・ドルドーニ、ジョエッターノ・ペッシェといった私でも知っている超有名デザイナーの手掛けたソファやテーブルが広い会場にゆったりと広がっていて、お互いが邪魔せず、主張しすぎず、全体が静かでおしゃれな居住空間といった印象。

ま、来てよかった。でも、1300円はいかんよ、な。

 

帰ってテレビを見ると、新型インフルエンザ、感染国はさらに増えていた。おいおい、大丈夫か。

 

薩摩切子

 

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