佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 38   

 “新人類”のメリー・クリスマス

まさに童心に帰った思いのひとときであった。

“新人類”のメリー・クリスマスというか、そんな幼いころではなく、白皙の美少年のころといえばいいのか、中学生か高校生に戻った気分になったということだ。ハクセキのビショウネン、はあくまでも自称にすぎないが。

最初の曲はオーケストラだけによる、リムスキー・コルサコフ「スペイン奇想曲」だったが、続いてコンサートの主役、ヴァイオリニストが登場しての、ビゼー作曲、ワックスマン編曲「カルメン幻想曲」。そしてメインとなるチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」。

このチャイコフスキーが私をいきなり遠い昔に連れていった。

少年の私は、この協奏曲のヴァイオリン・パートを、最初から最後まで、1小節も飛ばさずに口笛で再現することができた。音楽鑑賞としてはあまりにも邪道だったが、親しかった友達と、どちらが早くマスターするか競い合って、必死になって覚えたものだった。同じようにサラサーテの「チゴイネルワイゼン」も口笛暗記したが、そうして身についた曲は数十年のちのいまになっても消え去ることがない。

“新人類”のメリー・クリスマス私が感じた懐かしさのわけは、そうした曲目だけでなく、主役のヴァイオリニストにもよる。 「三浦文彰ヴァイオリン・コンサート」は、クリスマスイブ、初台の東京オペラシティ、コンサートホールで行われた。バックは東京フィルハーモニー交響楽団。  

私にとって三浦文彰は初めて聴くヴァイオリニスト。いや私ばかりではなく、この日コンサートホールをほぼ埋め尽くした多くの聴衆にとっても、初めての出会いであったはずだ。  というのも、この三浦文彰、まだ16歳。

“新人類”のメリー・クリスマス父親がヴァイオリニストで、現在はこの東京フィルの第一ヴァイオリン、コンサートマスターを務めているという恵まれた家庭環境の中、3歳からヴァイオリンを初めて、国内のジュニアコンクールで幾度も優勝した英才だが、その名が急に知れ渡るようになったのは、この10月、わずか2か月前のこと。ドイツのハノーファー国際ヴァイオリン・コンクールで、各国からの並みいる大人たちを抑えて、16歳にして見事優勝を飾ったことだった。それも、ウイーンの国立音楽学院に入学するための小手調べで受けたコンクールだったというから、まさに突如現れた天才少年といってもいい。  

私が三浦少年を知ったのも、ヨーロッパから帰国した12月初め、なにげなく見たテレビのワイドショーで報じられていたからで、その番組でクリスマスイブのコンサートを知り、急いでチケットを取ったということだ。  三浦少年のプロデビュー、日本初舞台であるばかりではなく、バックの東京フィルには父親がコンサートマスターでいる、ということにも大いに関心がもたれる。父子はどんな協演を聴かせてくれるのだろうか。  

 

“新人類”のメリー・クリスマスタキシードなのだろうが、襟元が高く詰まっていてまるで昔の学生服のようで、客席からは「かっわいーっ」と、クラシックコンサートではまず聞くことのない声が起こったりしたが、この少年、やはりただ者ではない。

ビゼー「カルメン」はいうまでもなくオペラ「カルメン」のいくつもの曲をヴァイオリン協奏曲にアレンジしたもので、さまざまなテクニックを駆使し、見かけによらぬ世慣れた音を聴かせてくれ、16歳にしてヴァイオリン歴14年という実績を感じさせる。

そして勝負の曲はチャイコフスキー。このヴァイオリン協奏曲は、女性好みの甘ったるい旋律と、違和感の少ない和音構成で、ともすればイージーリスニング的な受け取り方をされるが、その実なかなかの難曲といわれている。細かくて速い指運びが要求されるので、女性ヴァイオリニスト向きだともいわれるが、本当に高度なテクニックなら男性に限る。その点、手の小さな日本人男性は有利かもしれない。

そして三浦文彰。充分以上に弾きこなしていた。

少し気になったのは、本気で戦っていないな、と思わせたこと。音楽で戦う必要はないではないか、と考えるひと、あなたは間違っています。

協奏曲は“競争曲”でもある。ヴァイオリニストとオーケストラの“競走”“協奏”。その点三浦少年は戦いきれていなかった気がする。初めての大舞台。しかもコンサートマスターは父親。やはり遠慮というか、甘えがあったのかな。おじさんはそう思いました。

 

このような、はるかに年の離れた世代が堂々と活躍するのを見ると、年を取ったな。そう思いますね。自分のことです。

世の大人たちは、こうした新世代の登場を“宇宙人”“新人類”と呼んで、理解できないことを当然のようにいうが、実はそれがますます老いを進行させている。理解しなければいけない。さもなくば、自分のほうから席を譲って退場するべきだ。“新人類”こそが“現代人”“将来人”。これからのひとたちなのだから。

三浦文彰もそうだが、私のかつての専門分野でいうならば、ゴルフの石川遼。彼も“新人類”だろう。

遼クンがデビューしてからしばらく、というかいまでも彼のゴルフを“旧人類“の目で批判する人が多い。

いつでもどこでもドライバーではなく、刻むところは刻まなければならない。考えるゴルフをしなさい。まだまだ若いなぁ。青いよ。

したり顔にそういって、いい気分になっているおとなたち、ベテランプロたち、解説者たち。みんなかつての仲間たちだからいいにくいけれど、あなたたちは“旧人類”でしかない。もう退場するべきなのです。

たとえば初秋の名古屋での東海クラシック。あの最終日、最終ホール。同組のふたりと同スコアでやってきた石川遼。182ヤードをなんと8番アイアン。絶対的に短い。届くわけがない。そのショットを、どーんと真上からピンそばに落とした。何番で打ったのか知らないギャラリーは大歓声を送っていたが、テレビで見ていた私には鳥肌の立つシーンだった。

なんという恐ろしい男だ。この少年は、いまゴルフを変えた。あまたの先輩たち、名手たちを葬り去った。かつてはタイガー・ウッズが、そして石川遼が、ゴルフをまったく新しいスポーツに変えたのだ。

三浦文彰に、一瞬だが私は同じことを感じていた。

 

プログラムでは3曲だったが、聴衆は当然のようにアンコールを求め続ける。 舞台に係の男性が現れて、指揮台の位置をずらし、第一ヴァイオリン、つまりコンサートマスターの譜面台を少し下げて、その横にもうひとつの譜面台を並べる。

もうわかりきった進行だ。アンコール曲はバッハ「ふたつのヴァイオリンのための協奏曲」。ということは、三浦父子の競演、協演。

“新人類”のメリー・クリスマスこの演奏に、緊張感は薄かった。アンコール曲というだけではなく、父子にとってもう幾度となく演奏し、肌になじんだ曲に違いない。父は子に、子は父に、いくらかの遠慮と、同時に甘えを見せ、許すような気配がホール一杯に流れた。涙ぐんでいる中年女性もいた。

アンコール2曲目。父は後方に下がり、弦楽器だけが前に出て三浦少年に向き合っての、ヴィヴァルディ「四季」第2楽章「秋」。バッハのゲルマン風な荘厳さに対するヴェネツィア・ラテンな優美さ。アンコール2曲の選曲としては申し分ない。もちろん三浦少年の考えではないだろうが、その要求にしっかり応える力量と余裕。やはり“新人類”なのだろう。

 

“新人類”のメリー・クリスマス予想通り、というより予想以上のコンサートにすっかり満足してオペラシティを出るとクリスマスイブはたそがれていた。寒い。

そのまま地下鉄で神楽坂に出る。

神楽坂下の細い道をくねくねと行くと、小さなビルの3階にレストラン・カミクラ。近年若い女性に人気のヌーベル・キジューイのフレンチ・レストラン。“モエ・エ・シャンドンの夕べ”と銘打っていたのに惹かれてクリスマス・ディナーにここを選んだ。

“新人類”のメリー・クリスマスわれわれが口あけの客だった。新企画ともいえる料理の数々も、もちろんモエ・エ・シャンドンのシャンパンもかなりのものではあったが、なにしろ自分たちだけというのは心細い。話声もひそめてディナーを進めているうちに、次々と客がはいってきて予約の席を埋めていく。

すべての席が若いふたりずれ。窓を背にして女性が坐って、向き合って頼りなさそうな男の子。女性のほうがふたクラスほど格上に見える。われわれのように爺さんばかりががぶがぶ飲んでいるカップルはいない。

ま“旧人類”と“新人類”。これも仕方がないか。

 

“新人類”のメリー・クリスマス

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