WEEKENDLESS 33
新作「トゥーランドット」に違いない
原作と演出について考える。演出はどこまで原作を変えることができるのか。あるいはどこまで変えてはいけないのか。
これは多くの作家、演出家にとって、非常に重い、そして変わることのない疑問であり課題ではなかろうか。
私自身この問題で迷ったことも、怒ったことも幾度となくあった。
私が以前荒稼ぎをしていた漫画の原作などは、もとより無署名で書いた原作、作品だったので、漫画家、編集者がどう変えようとかまわない。ただしほとんどの場合変えてよくなってはいないよ、と考えてはいたが、署名作品についてはそうはいかない。
小説に関しては作家に無断でいじることなどあり得ない。編集者にもそれなりの常識はある。だが、漫画、ラジオ、テレビのドラマではそうもいかない。編集者、ディレクターには、作品は自分も含めた共同作品だとの思い上がりにも似た自負があるようで、幾度となく勝手に変えられて文句をいったり、次回から数回辞退したりしたものだ。
あるジュニア小説がテレビドラマ化されたときには、主役の少女の母がいつの間にか継母に変わっていた。不幸な少女の母は継母に決まっている、というあまりにもアナクロな考えのディレクターの仕業だったが、放映してしまっていて直すこともならず、以後のお付き合いはご遠慮、ということで終わった。
ラジオドラマの場合は言葉がなによりも重要なのだが、それを理解しないディレクターもいた。あるFM局で5年間にわたって毎週1時間のドラマを書き、その間幾人もディレクターが変わったが、中の一人は、若いアシスタントを育てるために作品を利用しようとした。つまり脚本を書き直させる。これはたまったものではない。おしゃれなスキー場を舞台にした話を書くと、そこに「あなたとふたりで愛のシュプールを描きましょうよ」などといった臭いセリフを書き加えてくれるし、「きみの歌声に脱帽だ」といった古色蒼然言葉を入れてくる。結局そのディレクターは数カ月で異動したが。
なぜいまさらこのようなことをいいだしたかというと、新国立劇場でオペラ「トゥーランドット」を観たからだ。文化庁芸術祭執行委員会の主催。毎年この季節には各劇場、テレビ局などが力を入れて製作する中のひとつだが、プッチーニのこの「トゥーランドット」がかなりものすごいことになっていた。
これまで幾度となく観た「トゥーランドット」には決まったパターンがあった。幕開けは古代のシナ、北京の下町。暗く貧しげな北京の街を、戦いに敗れて女奴隷リューとともに放浪している老いたるティムール王が、息子のカラフと偶然に再会するという暗く静かな始まりであった。そのはずだった。
ところがこの日の「トゥーランドット」は、幕が上がっても音楽はいっこうに始まらない。しかも舞台に繰り広げられている光景は北京ではない。どうやら現代のイタリア、トスカーナ地方あたりの村祭りらしく、いくつもの屋台、ワゴンセールが並び、その間を自転車の子供や着飾った村の男女が歩きまわっている。楽しげな祭り風景だがいっさい無音。その広場にゆっくりと大きな山車が現れ、横腹に「TURANDOT CHINA」と書かれている。イタリアで「CHINA」はないだろう。「CINA」チナか「CINESE」チネーゼだろうといった茶々はともかくとして、この山車から次から次へとシナ衣装の男女が躍り出て、飛んだり跳ねたりトンボを切ったり。つまりイタリアの村祭りにシナの曲技団がやってきたよという設定らしい。まだまだ音楽は始まらない。そのうちに歩き回っていたイタリア人たちもシナ服に着替え、いつの間にか舞台は古代の北京に変わっており、そこのリューに手をひかれた老王ティムールが現れ、こうしてようやくプッチーニの音楽が始まる。劇中劇の設定なのだろうが、長い長いプロローグといおうか、原作改竄といおうか。
「おふくろさん」に勝手な歌詞を書き加えて故川内康範にこっぴどく叱られた森進一の悲劇を思い起こさせるような幕開けだったが、その後の展開も似たようなものだった。
冷血で美しいシナの王女トゥーランドットには3人の部下、大臣が仕えており、この3人が狂言回しも務めるのだが、これがどう見てもピエロトリオ。おどけたり、トンボを切ったり、ずっこけたり。賤しくも一国の大臣なのだよ。音楽はそのままにこうした演出が延々と続く。
3幕物でそれぞれ25分もの休憩があるが、休憩中も幕は下りず、舞台には大道具小道具が置きっぱなし。シナ人たちが歩きまわっているばかりか、立ち話をしたり、声なく笑い合ったり、演技を続けている。これも新演出。
原作改竄は終幕にも行われていた。
通常の「トゥーランドット」は、それまで暗い中続いてきた北京の夜が、終幕でトゥーランドットとカラフが結ばれるときには一転して明るく絢爛豪華な宮殿シーンとなる。そこに観客のカタルシスを一気に解放する見事な構成があるのだが、ここでは逆に舞台は暗くなり、プロローグのイタリアの村祭りに戻っている。シナ人たちはイタリア人に変わり、トゥーランドットはワンピースに、カラフはトレンチコートにと着替えて、昔のイタリア映画、マルチェロ・マストロヤンニにソフィア・ローレンかといった趣だ。
プッチーニから変えられているところはまだまだある。例えばプッチーニはエンターテイメント作家らしく、いくつもの有名な、泣かせどころのアリアのあとには必ずしばらくの空白を作って、観客の拍手を充分に集めるようにしているが、この舞台にはそれがない。アリアから次の音楽のあいだに空白はなくすぐに続くから、拍手の隙間がない。そのうえ、わけを知らない、というよりオペラをよく知っている客たちがうっかり拍手などしないように、客席の要所要所にスタッフを配しているらしく、ぱらっとでも手を叩こうものならすかさず「しーっ!」と制される。イタリア人らしいのが多かったが、拍手防止マフィアのようなものだな。
と、長い時間観て、昔は原作者のはしくれだったおじさんは思うのだ。これは「プッチーニ作曲・トゥーランドット」ではなく、それをもとにした別のオペラではないか。“「プッチーニ作曲・トゥーランドット」より”とするべきではなかったか。
だがしかし、この新「トゥーランドット」、いろいろ文句をいったが、なかなか素晴らしい舞台ではあった。プッチーニは怒るだろうが。
