佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 31   

ギメの涙とパリのヴェネツィア

多くの路線が入り乱れており、多くの駅で他の線に乗り換えることができるのがパリのメトロのいいところであり、難しいところでもあるのだが、9号線イエナはほかの路線網から完全に浮き上がってぽつんとたたずんでいる。

ギメの涙とパリのヴェネツィアギメ美術館にも同じことがいえる。長い歴史と伝統を持ち、数多くの素晴らしい美術品、文化財を有しながら、他の有名美術館のように観光客の群衆にかき回され踏みにじられることもなくすっと孤高を守っている。

東洋の、主に仏像を蒐集展示、という特殊性も大いにあるが、そこにイエナという隔絶されたかの地の霊が働いている。そう考えるのはこのギメ美術館に深い思い入れがあるからなのだろう。パリに滞在しているあいだには必ず訪れているが、そのことをなにかに書いたり話したりすることはまずない。いつもひとりでやってきて、だれとも話さずに数時間静かな館内で過ごし、再びパリの喧騒に戻っていく。そしてその話はもうしない。

ギメについて語るのは、多分これが初めてで、多分最後になる。

 

イエナは乗降客の少ない駅だ。

そのイエナで降り、階段を上がって外に出ると、すぐ目の前にギメ美術館が立っている。美術鑑賞の客たちは、といってもまず私ひとりだが、周囲を見回すこともなく石段を上がってドアを押す。ただいま、とでもいうように。

 

ギメの涙とパリのヴェネツィアギメ美術館は、その昔実業家エミール・ギメが自ら所有する東洋の仏像、美術品、文化財を展示公開するために作られたのだが、その死後に次々に拡充され、特にクメール文明に関する充実ぶりはいまや世界屈指、美術館の白眉ともされる。

クメールはいうまでもなく、現在のカンボジアを中心とする広い地域に栄えた王国だが、クメール文明はヒンドゥー教と仏教の双方を受け入れ、アンコール・ワットなどを代表とする壮大な寺院、また端正にして静謐な彫像や優しく優雅なレリーフなどを多く残している。

ギメの涙とパリのヴェネツィアがそれらは深いジャングルに閉ざされたまま深い眠りの中に沈み、19世紀に発見されるまで世界はその存在を知らなかった。カンボジアを植民地としたフランスが、パリの万国博覧会で紹介したのがきっかけで多くのひとの知るところとなり、エミール・ギメのような資産家の蒐集も行われた。

こうしたいきさつもあるためか、美術館の中にはいまもカンボジアの密林の静けさが漂っているようで、数少ない鑑賞者たちは口を閉ざし、足音を消し、4階にもわたる広い館内を歩く。私のように。

 

クメールから始まったギメ美術館だが、いまはインド、アフガニスタン、パキスタン、チベット。シルクロードに沿った国々。タイ、ヴェトナム、ラオス、ビューマなどの東南アジア諸国、さらにはもちろんシナ、朝鮮、そして日本からの蒐集品にあふれている。

ギメの涙とパリのヴェネツィア日本では、奈良、京都、滋賀、そして関東と、数々の仏像、寺院を巡るときを持つ私で、仏像をめでる心は人後に落ちないつもりだが、それでも日本以外には、シナ、朝鮮を別にすれば、世界の仏像文化に対する知識造詣はあまりにも浅い。どれがどの国のものか、特徴はどうか、文明の流れはどうなっていたのか。そのあたりの教養が私には欠如している。これでは、いま流行の“ぶつじょ”(仏女、と書くのか)“ぶつお”(仏男?)と変わらないではないか、という恥ずかしさもあるのだが、ギメ美術館、この文明の洪水のさなかにはいってみると、その恥じらいは影もなく消える。

そんな小さなことはどうだっていいじゃないか。そんな気持ちにさせられる。広い、あまりにも深い文明世界に、自分の小ささを思い知らされて、ただひたすらにこの空気の中に沈んでいたいと思わされるのだ。

 

ギメの涙とパリのヴェネツィアタイのアユタヤ王朝時代の仏頭、インドのチョーラ朝のシヴァ像、ビューマの等身大の女神像。それらの前にひとつずつ立ち止り、見つめ合い、語り合い、時間はこうして過ぎていく。音もなく。

ラオスの上半身だけの仏像の前にたたずむ女性がいた。私が近づいても気づくようすもないし、譲る気配もない。ただ立ち尽くしている。溶け込んでいる。

見ると、女性は泣いていた。頬を涙が流れ続けていた。泣いていることにも気づいていないようだ。

ラオスのひとではなさそうだ。フランス人でもない。もしかしたら東欧のどこかから来たひとかもしれない。30歳を少し過ぎたあたりだろうか。

私は足音を消して離れた。

振り返ると、女性はまだ涙を流し続けていた。

あのひとになにがあったのかは知らない。しかし、あのひとの涙はなぜかわかる。そんな気がする。ギメ美術館とは、そんなところなのだ。

 

パリに来てからそろそろ3週間。オープンチケットなのでいつ帰ってもいいが、この日まで帰りを決めかねていた。なんとなく日本に帰りそびれていた。

帰ったってなにもいいことはない。政権が代わって、日本という国はますますつまらなくなっている。あの国はどこに行こうとしているのか。小沢という男は、日本を破滅させようとしているのか。インターネットのニュースで見るたびに、私の心から日本は遠くなっていく。

 

遅いランチというか、早すぎる夕食を、といった気分で街を歩いていて、いつしかパレ・ロワイヤル近くに出ていた。歩行習慣とでもいうものがあるのだろうか。いつも同じようなところをさまよっている。

そのとき、リボリ通りの向こうに赤い、見慣れたのぼり、というか布のスクリーン看板とでもいうべき大きな幕を見た。オレンジ色の混じったその赤は、ルーブル色とでもいうか、ルーブル美術館特有の色合いで、珍しくもないが、そこに書かれた大きな文字と背景の絵画が私の目を引いた。

Titen Tintoret Veronese

Rivalites a Venise

ギメの涙とパリのヴェネツィアrivaliteはライヴァル、つまり競争相手、複数になって競合者たち。Titenはティティネーゼ、Tintoretはそのままティントレット、Veroneseはヴェロネーゼ。背景の明るい色の裸婦画は、ヴェロネーゼがどこかに描いた大きな壁画、宗教画の一部に違いない。

つまりティティネーゼ、ティントレット、ヴェロネーゼという3人のヴェネツィア派の代表画家の競作展が行われている、ということだ。

この滞在中、もちろんルーブルには訪れているが、3回ともあまりものひと混み、喧騒に辟易し、少し観ただけで退散していたのだが、そのルーブルでこんな催しが行われているとは。

ヴェネツィアは、イタリア大好き、イタリアかぶれの私にしても、ベスト3のあたる街だ。しかも、どのような美術を選ぶかというと、そのトップに上がるのが、印象派でもなくピカソでもなく、ヴェネツィアの宗教画、つまりこのひとたちの作品なのだ。

ランチ、ディナーは吹き飛び、私はまっすぐリボリ通りを渡って、ルーブル美術館の広い前庭へとはいっていった。

ギメの涙とパリのヴェネツィアピラミッド地下のインフォーメーションで聞いてようやく判明した。「ヴェネツィア展」(こう呼ぼう)は、ルーブルのリシュリュー、シュリー、ドノンのどの翼でもなく、リシュリュー翼へ上がる地下の入口のうしろに、ひっそりと隠れるようにあるナポレオン・ホールで開催されていた。しかもそうした案内はどこを探してもない。これでは一般客はもとより、ヴェネツィア小僧の私にも気がつかないわけだ。

薄暗い会場は、確かにヴェネツィアの名画にあふれていた。

3人だけの競作と思っていたが、ほかにもバッソーノ、ドナテッロなど有名作家の作品も収録されており、その数150点以上。まさにヴェネツィアのルーブル版とも思える豪華なラインナップだ。

ヴェネツィアにはもう4年も行っていない私は、引き込まれるように会場を歩いたのだが、懐かしさと感動の中に潜んでいるこの違和感はなんだろう。

ギメの涙とパリのヴェネツィアそれぞれの巨匠の作品は小品揃い。もちろんヴェネツィアの宮殿、教会の壁を埋め尽くす、それぞれが広いグラウンドもの大きさを誇る絵を、一枚といえどもパリに運んでくることは不可能だろうから、小さな作品ばかりになるのは仕方のないことではあろうが、それにしてもこの照明はよくない。

鑑賞者たちのカメラの被害に遭わないためか、遠く離れて鑑賞することが難しい狭さのためかはわからないが、ひとつひとつの絵に、すぐ近くから強いスポットライトを当てている。そのため、絵の一部がぎらぎらと乱反射して、角度を変えなければよくわからないという弊害を生んでいる。

ヴェネツィアの、その芸術の真ん中にいながら、私は思っていた。これはヴェネツィアではない。ヴェネツィアはこんなものではない。

そして思った。

本当のヴェネツィアを見に行きたい。

 

ホテルに帰った私は、エールフランスの電話をして、日本帰国を大きく延長し、その間のエクステンションとして、パリ・ヴェネツィアの往復チケットを追加した。

明日は、ヴェネツィアにいる。


ギメの涙とパリのヴェネツィア

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