WEEKENDLESS 30
青春の墓を出でて何処へ
この館に来るたびになにか憂鬱なというか、しんと静まりかえる気分になる。昔からそうだ。いやな感じではない。そうだった。この空気から目をそむけてはいけなかったんだ、といった、少し離れて自分を見直す、そんな小さな心になる、といえばわかってもらえるだろうか。
ひとひとりがようやく通り抜けられるような壁のアーチを入ると思いがけずに広い部屋で、その部屋いっぱいにいきなりいかめしい鎧、刀、槍などの武具が所狭しと並べられている。地響きを立てて駆け抜ける、戦にはやる馬たちのいななきが聞こえるようだ。
部屋を移ると、そこには木彫りのキリスト像、聖人たちの像。赤子を抱いた女人は聖母に決まっているし、聖人たちが小さな身体を重ね合わせるように並んでいる木版絵は、祭壇を飾る板の一部だったろう。
さらに次の部屋には実物大と思われる木彫りの女性像。柔和な笑顔のその女人はマグダラのマリアだ。そばの壁に浮かぶのは「聖ベデディクトスの昇天と見守るふたりの修道士」と名付けられたステンドグラス。12世紀の作品だ。
そう。私はいま中世の館にいる。
パリ左岸のクリュニーの一角にあるクリュニー美術館だが、正確には国立中世美術館。19世紀の初め、この古い城館の主となったソムラールという貴族が、フランス各地、ヨーロッパ各地から、武具、木彫り像、絵画、タペストリー、ステンドグラスなどを買い集めてコレクションとし、ソムラール亡きあと一般庶民にも公開する美術館になったというのだから、歴史としてはずいぶん古い。半年ほど前、この場でも紹介した、ニューヨークの北のはずれにある、ヨーロッパの古い修道院の回廊と、同じような美術、骨とう品を買い込んできて美術館にしたクロイスターに似ているが、なにしろこちらはパリの中心部に、昔ながらの姿である城館なのだ。私が美術館といわずに館といっているのはそのためだ。
地味な美術館なので、町なかにあるにもかかわらず観光客の姿は少ない。展示品の個性とそのことが相まって、静けさ、暗さはますます胸にしみる。これを味わいたくて、もう30年余りも私はここに通い続けているのだ。
「一角獣と貴婦人」という有名なタペストリーの連作など、世界に誇るべき美術品も少なくはないが、なにかを熱心に観るというのではなく、なんとなくこの静かな雰囲気の中に身を置いていたい、そんな思いでたたずんでいる。
そして、がたがたと床を鳴らしながらひとびとが歩きすぎていく中、小さな木の椅子に坐って、2時間も3時間もじっとしている。昔からそうだった。ここは、私の心の避難所でもあったのだ。
クリュニー美術館を出ると、そこはそのまま学生たちの町ソルボンヌ。飾り気のない若い男女が、しゃべりながら、考え事をしながら数多く歩いている。中世からいきなり、いまの若い、埃っぽい気配の中に放り込まれる。あのときのままだ。
いまは第3大学、第5大学などと名を変えているが、あのころは別の名で呼ばれていたパリ大学の建物のあいだを縫うように歩き、小さな坂をいくつか上がり、曲がって出るのはモンジュ大通り。地元のひとしか用のないパリの町なかの下町。午後の時間、ひと通りは少なく、広い道を車だけが通り過ぎていく。
昼休みで閉ざしている小さな商店街を歩き、そこにいきなり開いている狭い入り口、建物と建物の隙間のようなアーチをくぐると、そこには突然開けた空間が待っている。中学校の校庭くらい。小さな草野球場ほど。だが鉄棒や砂場もなければ野球のピッチャーマウンドもバックネットもない。ただ土埃の舞う丸い広場があるばかりだ。ここもあのときのままだ。
広場の周囲には石造りのスタンドというか、観客席のような石の椅子がめぐらされている。私はその石に腰を下ろす。あのころのように。
広場では数人の男の子が所在無げにボールを蹴って遊んでいる。サッカーの練習だろうが、ただ時間をつぶしているだけで、下手糞だしやる気もなさそうだ。この姿も昔見た覚えがある。
この広場、どこにでもある小さな運動場のようだが、実は2000年近い歴史を持つローマ統治時代の競技場のあと。ユリアス・カイサルの「ガリア戦記」、つまりヨーロッパ統一のあと、ローマ化され、パリにはローマ建築、ローマ水道、そして3点セットのように競技場が作られた。競技のための猛獣や剣闘士、奴隷などが控える石の部屋も館客席の下にいくつか現存している。
ここの名称は、アリーヌ・リュテシア。アリーヌはいうまでもなく競技場で、リュテシアはローマ時代のパリの名だ。こんな遺跡が下町の商店街の裏にぽっかりと残り、そこに多くのひとが無関心でいる。パリらしい。
クリュニーからソルボンヌを抜けてアリーヌへ。この日の私の歩みは、30年前のあのころから変わらない。そして、この石に坐ると、あのころの気持ちが戻ってくる。あのころの。

26歳、私は日本でのマスコミ仕事を中断し、単身パリに渡った。半年間の語学校アリアンス・フランセーズを経て勇躍パリ大学に入った。当時は第3学部ソルボンヌ教室。フランス文学も、文化も、遊びも、女も、酒も、すべて吸収してやろうと、意気に燃えていた。
最初の1年間、1年半は順調だった。サルトルの姿を見た。岸恵子とすれ違った。フランス語で短い作品を書いた。そんなことがうれしくて、次々に日本の雑誌に文章を郵送した。
だが、パリに、ソルボンヌに革命のあらしが押し寄せてきた。カルチェ・ラタン革命。授業、講義は中断、閉鎖され、左岸リブ・ゴーシュ中の石畳ははがされ砕かれ投げられた。投石は、髪の黒い東洋の留学生にも向けられた。追いかけまわされ、袋叩き、半殺しにあう東洋人たちの姿を多く見た。
それでも私は、帽子を深くかぶり、顔を伏せ、背を丸め、毎日のようにソルボンヌに出かけて行った。学校に、教室に、図書館に入れない。語り合った友人たちにも会えない。それでもほかに行くところがなかった。
だから、逃げ込むようにクリュニー美術館に入り、ひと気のない暗い展示室にじっと坐っていた。
クリュニーにもいたたまれなくなり、というより近付けなくなったとき、私は少し離れたアリーヌ・リュテシアに向かっていた。雨の日も、冷たい石に坐って、じっと広場アリーヌを見下ろしていた。
大学そのものがなくなっているのだ。卒業できないことはもうわかっていた。日本からは、もう帰ってきなさい、といってきている。
帰らなければならないのか。帰りたくない。
私の心の中で、なにかが、いや、すべてが終わっていた。
広場の子供たちが気まぐれに蹴ったボールが、勢い余ってスタンドに飛んできた。私の横で跳ねている。立ち上がって拾ったボールを思い切り投げ返した。
ボールは子供たちの頭上を越えて飛んでいったが、私の肩にはちぎれるほどの激痛が残った。
死んでしまえばよかったのかもしれない。
パリは、ソルボンヌは、私の青春の墓場なのだろうから。
この墓場を再び出て、私はどこに行こうとしているのだろうか。
