佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 30   

昔のパリへの通り道

ここ2、3年のことだ。パリの街に風変わりな集団が増えてきている。

昔のパリへの通り道たとえばルーブル・リボリあたりからパレ・ロワイヤルを抜けて、ちょっとごみごみしたあたりへ歩くとき。さらに北に上がってオペラ座前からレピュブリック方面にグラン・ブルバール(大通り)を行くときなど、明らかに地元のひとではない、といって普通のの観光客でもなさそうな、ほとんどが数人連れ、稀にはひとりかふたりの通行人が、不思議な行動を取っている。

昔のパリへの通り道彼らは、街を歩いていても、通りに面したブティックや商店、レストランなどは見ない。立ち並ぶ建物の少し高い場所に目を向け、手にした地図と建物の壁の住所板を見較べたりしながら、なにかを探している。そしてようやく目的の建物がみつかったのか、ここだ、ここだ、とうれしそうに、少しおずおずしてその建物に吸い込まれていく。

覗き込んでみると、高いアーチ型の入口から奥に通路が伸びており、薄暗いのでよくわからないが、両側にいくつかの商店が並んでいるらしい。

とすると、彼らは買い物客か。そうではないようだ。うれしそうにはいっていった彼らに、なにかを買い求めているようすは感じられない。ゆっくりと歩いたり、まわりの様子をカメラに収めたりと、ただそれだけだ。そのさまは、ギリシャかイタリアのどこかの田舎で、あまり知られていない隠れ遺跡でも探しているかのようだ。

 

パサージュがブームになっているそうだ。

パサージュとは、本来は道と道とを結ぶ通り道。Passer(通り抜ける)する道のことで、城壁のような石造りの建物ばかりのパリにはどうしても必要なものであった。建物と建物のあいだに狭くてもひとの通れる隙間がなければ、ひとびとはずいぶんな大回りを強いられることになる。

だからいまも昔もパリにはパサージュがあふれているのだが、ブームになっているパサージュはそんな抜け道とは違う。

正しくはパサージュ・コヴェール。屋根に覆われた、という形容詞がつく。

昔のパリへの通り道19世紀の初めごろ、ブルジョワジーの台頭と商業主義の完成、産業革命による商品の大量生産、大量消費などにより、街には大小の商店があふれた。だが当時のパリは中世以来の細く薄暗い道が連なるばかりで、もちろん石畳舗装もまだ。買い物客たちは埃にまみれ、ぬかるみに衣服を汚しながらのショッピングを強いられていた。

そんなときに生まれたのが“屋根に覆われた商店街”。建物の隙間に屋根をかけ、その両側に小さな商店を配した。パサージュ・コヴェールの始まりで、たちまち人気スポットとなって全パリにあふれ、その数は200余りともいわれている。

このパリのパサージュを真似たのが、いまも観光ショッピング名所として名をはすブリュッセルのパサージュ・デュ・ロア(王のパサージュ)、ミラノのヴィットリオ・エマニュエル3世ガレリア、モスクワのグームデパートなどがあるが、その後発たちがいまも堂々としているのに、パリのパサージユはわずかな歴史を刻んだのみであっという間に衰退してしまった。

というのはオスマン公爵の大掛かりなパリ改造で、広い道が縦横に走るようになり、グラン・マガザン(百貨店)に代表される大商店が続々と現れて客足を奪ってしまったからだ。

だから現在では、単なる抜け道パサージュはいくつでもあるが、屋根付き商店街道路パサージュ・コヴェールは20か所も残っていない。

そこにやってきたレトロブーム。パリにはもう何回も遊びに来ている近隣諸国、地方のランス人たちが、もっと違ったパリを求めてパサージュに飛びついた。そういうことではないだろうか。

日本でも、雑誌、テレビがパサージュを取り上げてはいるようだが、パサージュを求めてうろつく日本人はまだまだ少ない。パリ初心者の彼らにはもっとほかに見たいパリは山ほどあるだろうし、1週間かそこらのパリではパサージュまで手が回らないはずだ。

昔のパリへの通り道という私も、40年あまりもパリをうろついていながら、そしてパサージュという歴史的施設の存在を知りながら、それに関心を向けることはまずなかった。もっと知りたい、感じたいパリが少しもなくならない。年々増える一方なのだ。

だからパサージュを論じるのは、“19世紀のパリ”オタクを自認する鹿島茂さんあたりに任せておこうと思っていたのだが、うーん、やはり流行っているものを自分だけ知らないというのは、うーん、気になるなぁ。

というわけで、この日のパサージュ巡り、となったわけだが、もとより興味の薄いものなので、完走できるかどうか。

バッグに忍ばせたのは、カメラとパリの地図、それに鹿島茂著の文庫本『パリ時間旅行』。なんか、情けないな。

 

鹿島さんのおすすめに従って歩くことにする。

マレのホテルからメトロ1号線で4つ。ルーブル・リボリで降り、少し引き返すように裏道にはいると、ありました。

Galerie Vero-Dodat(ギャルリ・ヴェロ=ドダ)。

昔のパリへの通り道ここはなによりも豪華絢爛な雰囲気作りを求めて造られたという。裕福な客たちを呼び込もうとしたのだが、そのもくろみは見事に成功した。

床には黒と白のダミエ模様。各商店のファサード入口は重厚なマホガニーで飾られ、パサージュの天井にはギリシャ神話の神々が浮かぶ。そのころの最新技術、ガスライトをいち早く取り入れたのもここだという。

いまもアートギャラリーや高級美術専門誌の事務所、超高級ブティック、クリスチャン・ルブターンなどが並んでいる。

落ち目を通り過ぎて、歴史の底に沈んでいる遺跡のようなパサージュを想像していたのに、いきなりなんとゴージャス、予想外れ。どうなりますやら。

ヴェロ=ドダを抜けてしばらく行くとパレ・ロワイヤルにぶつかる。この広い公園の南半分と、広場を巡る回廊(これも本来のギャルリのスタイル)も改装工事の最中だったので、広場のハトたちに持参のパンくずをばらまいてやって外に出る。

昔のパリへの通り道プチ・シャン通りといえば、ラーメン屋やうどん屋、寿司屋が散らばる一画で、短期の日本人ツアー客でにぎわうところだが、それに背を向けて行くと、  Galerie Vivianne(ギャルリ・ヴィヴィアンヌ)。  現存するパサージュの中でも最も美しいといわれるところだが、1825年、このあたりの大地主がさらに大儲けせんとて作ったもの。自分の所有する建物を少しずつ直し、動かして作ったので、回廊は幾度も曲がりくねっており、通路の途中には段差もいくつかある。歩きにくくはあるが、それがかえって複雑な変化となり、美しいパサージュに仕上がった。

多色使いのモザイクの床に内装はポンペイ風新古典様式、と鹿島さんは書くが、ふーん、そうですか。

昔のパリへの通り道中をくねくねと歩いていて、突然私でも知っている店に出会った。Aprio-Theアプリオ・テ。パリでチーズケーキの一番おいしい店といわれ、私も一度ならず御馳走になったことがあるが、そうか、こんなところにあったのか。

Viviannneからほど近く、やはりプチ・シャンからはいるのが、  Passage Choiseul(パサージュ・ショワズール)  

昔のパリへの通り道歴史は間違いなくあるのだろうが、これまでのふたつとは明らかに違う。がっかりしましたねぇ。50メートルほどのパサージュの両側に並ぶのは、シナのおかず屋、軽食屋。サウスコリアの定食屋。筑前煮弁当あります、トンカツあります、の小さな店もあった。パリ歩きの途中のカルメシならいいところだろうが、こんな“企画もの”では来たくなかった。歴史から消えていくとは、こういうさまをいうのだろう。さっさと出て次に行こう。

昔のパリへの通り道Passage des Panoramas(パサージュ・デ・パノラマ)。

パリ最古。創業1799年。18世紀だ。モンマルトル大通りに、当時大人気の見世物パノラマが催されており、そのひと混みを狙って造られたパサージュだが、パノラマが姿を消してもパサージュはしぶとく残った。

昔のパリへの通り道古いだけに通路は狭く、まっすぐな続いて通路の両サイドの並ぶ店のほとんどが小さな食堂。奥に行くほどなぜかインド料理店ばかりとなり、真っ黒なインド人客引きがしつこくメニューを押し付けてくる。逃げるにしかず。

で、逃げた先が、グランブルバールを挟んだ向かいの、  Passage Jouffroy(パサージュ・ジョフロワ)。

昔のパリへの通り道Panoramasとは正反対で、パリで最も新しくできたパサージュ。といっても1847年なので、やはりパリは古い古い街なのだ。

小汚い印象のお向いさんと違って、小ざっぱりながらどこか懐かしい、昔々のパリを思わせる店が並ぶ。アンティークなステッキの店。昔の本物のフランス人形を扱う店。いまも営業中の蝋人形の見世物小屋。そして突き当たりには、開設当時から続く小さなホテル、Hotel Chopin(ホテル・ショパン)がそっとドアを開いている。

昔のパリへの通り道歴史に磨き抜かれた瀟洒なホテルは、どこか悲しい。こんなところに2、3日泊まるのもいいかもしれない。

 

 

このほかにもいくつものパサージュは残っており、それぞれに異なる雰囲気を残しているようだが、私としては、ここでとりあえずストップ。そのわけは、まぁいいか。好みに合うものと合わないものがあるということです。

まだまだパリは続く。

 

昔のパリへの通り道

 

お暇ならお話しませんか? info@sayamatoru.com

Copyright (C) Sayama Toru; All Rights Reserved