
WEEKENDLESS II - 29
大丸デパートで「ナポレオン展」、世田谷美術館で「アール・ヌーヴォー展」。このふたつが偶然重なったことで、私のパリ行きは完全に決定し、1週間のちには、もうパリの街角に立っている。
パリにいます。着いてから1週間たっている。
いつもと同じ、しっかりした目的のある旅ではなく、なにもしなくてもいい。パリの空気に浸ってのんびり、ゆったり過ごせればそれでいい。
そう思ってはいたのだが、振り返ってみると、旅人の貧乏性は一向に治っていない。毎日せっせと歩き回っている。あるかなしかの目的のひとつではあったオルセー美術館には2回行ったし、その他小さな美術館を4つ訪ねた。ホテル近くの街角にひっそりとあるテアトル・エスパーシュ、芝居小屋といったほうがぴったりくるようなそこに、モリエールの「Tartuffe(タルチュフ)」がかかっていたので、飛び込みではいって3時間楽しんだ。
楽しんだ、というのは多少見栄を張った表現で、モリエールは大昔勉強したものだが、いま見るとまるで知らない舞台で、あの時代のフランス語がもう私には遠くなっていた。よくわからなかったのが本当だ。
そのほかには、パリの10月が思いのほかに寒く、レザーのブルゾンとコートでも買おうと、オ・プランタン、ラファイエット、ボン・マルシェとデパートを回ったり、昨年来たときに行きそびれたレストランを訪ねたりで、どこがのんびり、ゆったりだ、といわれそうな日々ではあった。
そして今朝、起きてからこの文章を書かなければならないことを思い出し、デスクに向かってパソコンを立ち上げたのだが、そのとき窓の外からにぎやかな子供の声が登ってきた。カーテンを開いて見降ろすと、10人ほどの小学生が道端に集まって騒いでいる。私のホテルの前が小学校で、いま子供たちが揃って、先生に連れられてどこかに出かけるところらしい。
石造りの古めかしい小学校の入口、といっても普通のアパルトマンのような玄関なのだが、その扉の上の石壁にEcole de Garcons(小学校)の文字と並んでVille de Parisともあり、昔パリ市の役所のひとつだったことを表している。近所にこのような古い建造物が多いはずだ。
と話して、あ、そうか、とわかってくれるひとは、パリをよく知るひと。マレというこの一角こそ、パリで最も古い街のひとつ。ナポレオンとアール・ヌーヴォーに触発されたからこそ、私が定宿の中からではなく、初めてここにホテルをとったのだ。
マレ地区はいまでこそ若者たちに人気の街で、日本の女性誌などにも取り上げられる新しいファッションブティックが次々にオープン。世界中の女の子、もと女の子、男の子、もと男の子で大賑わい。もちろん私もパリに来るたびに立ち寄ってはいた。
だが本当は、私が知っていたマレはこんなではなかったのだ。
マレは、私がパリに暮らしていた40年前までさかのぼらなくても、完全に繁栄から取り残され、置き忘れられたような場所だった。4区といえばセーヌ右岸でHotel de Ville(市庁舎)にもバスティーユにも近い、パリのまん真ん中、都心も都心といえるはずなのだが、この一角だけが抜け落ちるように忘れられていた。パリの真ん中に廃墟の街があるかのようだった。
だから、そのころの私にマレの記憶はない。ヴィクトル・ユゴーが住んでいた建物があると聞いて、1度くらいは来たかもしれないが、それだけの話だ。まさか、わざわざホテルを取ってこの地に滞在しようとは思ってもいなかった。
もともとマレはMarais(沼地、湿地帯)で、ひとの住むところではなかったが、シャルル5世がバスティーユ城塞を築き、近くのサン・ポール城を居城としたことから、周辺に王侯貴族が競って館を建て、さらにシャルル7世が王宮をこの地に移してから、マレは揺るぎのない高級住宅街、王侯貴族の街となった。
16世紀半ば、預言者ノストラダムスが「マレの地には不幸がみなぎっている」などと余計なことをいい、それを信じた王妃カトリーヌ・ド・メディチがルーブル宮に移ったりしたこともあったが、アンリ4世が再びマレに王宮を建て、それ以後の100年余り、マレの栄耀栄華は続いた。
このマレにとどめを刺したのが、ルイ14世によるベルサイユへの王宮移転で、王侯貴族やそれにつき従う大軍が一斉に姿を消し、マレは深い歴史の中に埋没していった。無人に近くなったマレに住むようになったのは、どこからも拒絶されてきたユダヤ人ばかり。“カタギ”の近付くところではなかった。
マレが200年もの長い眠りから覚めたのは、先ほどもいったようにここ2、30年のこと。パリがどんどんと変わっていく中にあって、大昔の建物や狭い石畳の道などが、いわゆるアンティーク・ブームに乗る感じで見直されたこと。貧しいデザイナーたちが安い家賃で店を出せる場所を探していたことなどが相まって、マレはそろそろと蘇ってきたのだ。
とは“パリ講談・マレの章”のひと節だが、かつての貴族の館の群れは、さすが石造り、いまもほとんど破壊も解体もなくそのままの形で残っているし、隠れるように住んでいたユダヤ人も、いまでは堂々とユダヤ人街を形成し、ユダヤ料理店などさまざまな形で、まさにマレに君臨している。
マレは、パリで最も古い街でありながら、最も新しい街になっているのだ。
子供たちの騒ぎ声から、歴史講談へと移ってきた私の心は、もはやじっとしていられない。パソコンなど叩いている場合か。
買ったばかりのブルゾンを羽織ってマレの街に飛び出した。
裏通りのホテルから、相変わらず薄汚れて黒ずんでいるサン・ポール・ドーム前の大通りサンタントワーヌ通りを横切って、もとアンリ4世の王宮があった場所、のちにヴィクトル・ユゴーが住んだ館のあるボージュ広場に向かったのだが、その少し手前に、高い石塀の門を開いた建物に出会った。通行人たちが恐る恐るといった感じではいっていく。Hotel de Sullyシュリュー館。私もあとに続く。豪華にして瀟洒。そんな感じの建物に囲まれた庭園は見事に手入れされ、400年前の栄華をしのばせる。
いまはこのように昔の貴族の館を一般公開して、パリの、そしてマレのイメージアップを図る政策のようだが、おかげで私たちも往時をしのぶことができるというものだ。
ボージュ広場のベンチで時間を費やしたのち、フラン・ブルジュア通り、ロジエ通りを歩いた。ユダヤ人街は、広場の静けさと打って変わった大賑わい。狭い道いっぱいに多くのひとが群がっているのはユダヤ料理店。そのカウンターのような窓口でファラフェルを紙袋に入れてもらっている。
ファラフェルとは、ソラマメに似た豆をつぶして丸めて揚げたピンポン玉風肉団子風を、レタスの葉っぱと一緒に食べるユダヤの軽食、おやつのようなもので、さほどおいしくもないが、一般のひとはここでしか食べられないから、喜んで行列している。私は買わなかったが。
ひと混みに疲れて、私はやはり貴族の館の静寂を求めた。
ボーヴェ館。ロアン館。アルベール館。いまは革命歴史館となっているカルナヴァレ館。ここにだけはこの近年、10回以上来ている。
そして大通りを再び渡って、セーヌ河岸、マリー橋近くのサンス館。それぞれでゆっくりしていたので、いつの間にか日も暮れてきて、寒さが沁みるようになっていた。
ホテルに帰ろうとして裏道を抜けていると、思いがけない遭遇があった。
確か数年前にはリセ(高校)シャルルマーニュ校の校舎で、これも貴族の館だったはずの建物。それが取り壊されて細長い運動場になっており、高校生たちがサッカーボールと戯れていたが、私が目を見張ったのは、その運動場に面した石壁だった。
フィリップ・オーギュストの市壁の遺跡、と書かれた小さくて目立たない標識が建てられているではないか。なんと、王侯貴族の時代よりさらに数百年もさかのぼった時代の、まだ小さかったパリ市の壁の名残りだ。
その壁に沿って誰かが館を作り、壁はじっと隠れて眠り続けていた。そんな壁があるとは、誰も気がつかなかった。
それが、高校の校舎が老朽化したために取り壊したところ、突然現れた。
凄ぇ! 私は長い時間、壁の前から動けなかった。
パリは、あまりにも底が深い。

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