
WEEKENDLESS II - 28
前回このページで「パリのアール・ヌーヴォー」に触れて、滅びゆくものはすべて美しい、などと、私としてはずいぶん型どおりなことを書いてしまったが、そのわずか数日のちに、まさにそのとおり、大昔に滅び、それだからこそいまわれわれの心を打つ、そんな遠い歴史のきらめきを感じることができた。
大丸デパートの催し物会場で行われていた「古代カルタゴとローマ展」。
“ローマ”は展覧会のおしまいのほうに少し現れるだけで、ほとんどがカルタゴに関する展示物、美術品ではあったが、それでも充分に引き寄せられた2時間余りではあった。
この大丸デパートというところ、以前も「ナポレオンとイタリア美術」なる展覧会を開催して、意外な感動をもたらしてくれたものだが、それに続いて「カルタゴ」とは、なかなかユニークで面白いことをやってくれる。新しく、すぐれたというか、風変わりな企画者が登場したのであろうか。ただ、前は主役とはいいかねるナポレオンを、今回はローマを、客寄せ風にタイトルに飾る。その癖も治っていないようだが、ま、許容範囲でもあるかな。
で、「カルタゴ」展に行ってきました。
カルタゴは、アフリカの北のてっぺん、いまのチュニジアに存在した古代都市のひとつだが、カルタゴといいチュニジアといい、現在のひとたちにとってはほとんど縁のない場所でもある。割に世界中を放浪している私でも、モロッコには行ってもチュニジアには行ったことがない。アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズの「ナイト・イン・チュニジア」で、深夜から未明にかけての空の変化を感じることはできても、だからどんなところかはわからなかったし、カルタゴに至っては歴史の中でもさらに遠い。
その遠い歴史の中で、それでもカルタゴの名が記憶に刻まれているのはひとえに“ポエニ戦役“によるものだ。 紀元前3世紀、当時強大な戦力、国力を誇っていた覇権国家ローマと、そのはるか以前から南西地中海に版図を広げていたカルタゴが、当然のように激突し、150年にも亘って戦い続け、覇を競い合った第1次から第3次までの“ポエニ戦役”。ユリアス・カエサル登場以前のローマの、もっともあわただしく、目まぐるしく歴史に揉まれ続けたローマの、これが最初の時代でもあった。
だから、カルタゴの名がわれわれに心に残っているのは、あくまでもローマあってのことだ。
そんな懐かしさで会場を歩いていたのだが、“ポエニ戦役”のはるか前からの古代カルタゴの遺物、遺跡、出土品などを見て、カルタゴはローマのために、ローマに滅ぼされるためだけに、この世に存在したものではない、という当然の感想を抱くようになった。当たり前のことだ。どこの国が、滅ぼされるために生まれるか。
カルタゴは、もとは地中海西部の国、いまのレバノンあたりにあったフェニキアが、アフリカ北部海岸に創設した植民都市だった。強大な海洋軍事力で勢力を広げ続けていたフェニキアにとって、穀倉地帯アフリカの玄関先を抑えるためにも必要な港湾都市だったのだが、そののち本国フェニキアの勢力が衰退し、新興国アッシリアに吸収合併され、そのアッシリアもバビロニアに敗れして、遠い植民都市カルタゴは完全に宙に浮いてしまった。登っていたはしごを外されたのであった。
当時のカルタゴは、“地中海の女王”などと呼ばれる美しい港だったそうだが、それが“地中化の孤児”となってしまった。オオカミの群れに放り出された羊、といった形ではあったが、しかしカルタゴは羊ではなく獅子だった。獅子の子だったのだ。
親のいない、味方もいない獅子の子は戦わざるを得ない。周囲の敵をすべて倒さなければ生きていけない。半世紀もさらに前、国際的な孤児に追いやられた日本が銃をとらざるを得なかったように、カルタゴは地中海世界を相手に命がけの戦いに出、そしてその背水の陣が功を奏して、次々に領土を増やしていった。
そして当然のようにローマと激突する。
カルタゴとローマが最初にぶつかったのが、両国のあいだに浮かぶ島国シチリアだった。
それまで、シチリアの西半分はカルタゴ、東半分はローマという風に棲み分けが行われていたのだが、東のシラクーザとメッシーナが内輪もめを起こし、カルタゴがシラクーザの応援に回ったことが長い長い“ポエニ戦役”の始まり。
学生時代の西洋史で一応は学んではいたが、私がこの“ポエニ戦役”に深入りするようになったきっかけは最近のことだ。塩野七生さんの「ローマ人の物語」。全10巻の大長編うち、分厚い1巻をまるまる費やして塩野さんは“ポエニ戦役”を描く。その面白いこと、手に汗握り、血沸き肉踊る。
“しかし”“だが”“けれども”“そうはいうものの”“ならば”といった接続詞で延々と話を続ける独特の“ああいえばこういう”的文体で描く古代の戦争を、私は夢中になって読んだ。
特に前篇、中編、後編と別れるうち、つまり第1次から第3次までのうち、中編、第2次。
第1次で24年間も戦いながらローマに押し切られ、屈辱的な講和に追い込まれたカルタゴが、それから20年近くのちに満を持して再戦に立ちあがった、もっといえば猛将ハンニバルの登場に始まる8年間の戦い。これが面白い。まさに、講釈師、見てきたような歴史講談。
ローマを攻めるにあたって、まずは遠いイベリア半島、いまのスペインを抑え、そこからえんえん象の大軍を率いてのアルプス越え。一気にイタリア半島になだれ込み、次々に防衛隊をなぎ倒して、やがては首都ローマに迫る大遠征。
巻をおくをあたわず、という表現がぴったりで、男の子は戦争ものが好きなんだな。昔からの講談人気がわかるな、といったわれながら気分のいい読書だった。
ことに、イタリア中部のアレッツォからペルージャに至る途中の大きな湖トラメジーノ湖の北岸で、林の陰に身を隠したハンニバル軍が、堂々と進軍するローマ軍を殲滅する大会戦には、自分のことのように酔いしれて、あるときわざわざその地にドライブし、湖畔のホテルに泊まって、歴史に思いを馳せたりしたものだった。ばかだね。
だから私にとって“ポエニ戦役”は、ハンニバルとローマの戦いという印象が深いのだが、それは塩野さんも同様らしく、この巻を「ポエニ戦役」ではなく「ハンニバル戦記」としている。
大丸デパートの会場に飾られた展示品は、この“ポエニ戦役”以前を「フェニキアとカルタゴ」、以後を「ローマとカルタゴ」とふたつに分けており、その両者に共通点はほとんどない。
前者はあくまでもフェニキア、中東の古代文明を背景にした遺跡、遺物なのだが、後者に至っては、それがイタリアのどこかの遺跡から出土したといわれてもそう信じてしまうようなものばかりだ。
この事実がまた、カルタゴの悲劇を物語ってもいる。
紀元前201年、ローマ軍に徹底的に打ちのめされ、最後には味方であったはずのアフリカの黒人国ヌメディアにまで敗れたカルタゴ。
勝者ながらなおもカルタゴを恐れ、ハンニバルの幻影を捨てきれないローマは、カルタゴという都市、カルタゴ人という人種を完全にこの世から消し去ろうとし、すべての建物、港などを破壊し、焼き払ったばかりではなく、全体を更地に変え、塩で埋め尽した。一木一草さえ許さなかったのだ。
そのカルタゴが蘇ったのはさらに数百年ののち、今度はローマの植民地としてであった。したがってその時代の遺物はあくまでもローマのものでしかない。
「古代カルタゴとローマ展」は客観的、冷静にふたつの時代を並べていたが、その両者のあいだに横たわる歴史の深さ、面白さ、残酷さは、まぎれようもなく会場に漂っていた。
カルタゴの美は、歴史の美であり、滅びの美であった。
明日から、パリです。

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