佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 27   

オルセーのアール・ヌーヴォー

偶然のいきさつから「ナポレオン展」を見て、わずかではあったものの展示されていた肖像画、遺品、記念物に刺激され、突如パリ行きを決めた私ではありましたが、決心から数日後にはパリに立っていようとするのはなかなか大変なことだった。  

まず、リタイアメントとはいってもいくつかの書き物の約束はあり、それをキャンセルとしてもらうか、前もって書きため、送っておかなければならないし、そうでなくてもゴルフの約束、クルージングの約束、飲みの約束など、いくつかの無責任な約束もあった。ゴルフとクルージングは、運よく、といおうか生憎といおうか、折からの秋雨と台風の来襲で自然にナシとなってくれたが、ノミのほうはその日の夕方になって思い出したものがみっつも重なっていて、雨の中出かけていく羽目になった。そして行ったら行ったで最後まで飲んでしまうので、次の日がますます大変という、自業自得の数日間ではあった。  

そんな中、その忙しさに輪をかける発見があったので、まったくもう、やれやれでもあった。  

発見とは、ここのところ、トヨスに引っ越して以来とんと気にする機会もなくなっていた、前の住所、もと縄張り、世田谷美術館から遅ればせながら届いてきた「オルセー美術館展」。

副題に「パリのアール・ヌーヴォー」とあるので、いわゆる絵画展、オルセーの代名詞ともされる印象派展ではないようだが、なにしろパリ。しかも数日のちには自ら行かんとしているパリだ。これは無視するわけにはいかないではないか。近づく台風、警戒警報の中、勇敢にも車を走らせて世田谷は砧公園、世田谷美術館へと向かったのであった。

レインボウブリッジは50キロ規制。大きく揺らいでいて緊張したな。

 

オルセーのアール・ヌーヴォーオルセー美術館は、パリに住んでいた昔から、セーヌを挟んだ向かいのルーブル美術館同様、幾度となく訪れている。ルーブルがエジプト、ギリシャの昔から近世に至るまでの長い歴史の中の美術品の膨大なコレクションを誇っているのに対して、19世紀以降、というはっきりしたククリを持っているオルセーには、なぜか安心して一日を過ごすことができ、2週間ほどの短い滞在のときを除いては、なんとなく出かけてはなんとなく歩き回っていた。

ニボー・メディアン、つまり中2階にあるレストラン、カフェは、ルーブルのフードコート的なそれとは違って、展示作品と同じ19世紀風な古めかしさ、優雅さを遺してくれていて、そこにだけ行くこともあった。

だが、そうして数限りなく訪れたオルセーではあったし、すべての階、すべての個室をくまなく見て回ったつもりでもいたのだが、では「オルセーのアール・ヌーヴォー」とはどんなものだったかといわれるとうーんと詰まってしまうに違いない。

19世紀に澎湃として花開いた「新しい芸術」文字どおり「アール・ヌーヴォー」には、絵画ほどではないにしてもかなりの関心は持っていた。

オルセーのアール・ヌーヴォー大革命前後、特に革命後の数十年間に関心を持ち、バルザックをはじめ、ユゴー父子、プルースト、ユイスマンスなどの小説に接し、いくらかは学んだ身としては、アール・ヌーヴォーは欠かせない背景であり、小道具であり、モチーフであったともいえる。それなのに、オルセーでの記憶があまりないということは、やはり印象派などの絵画の印象が強すぎたのだろうか。我ながら迂闊なことだ。これでは、なにがなくとも象派、の日本人を笑うことはできない。

と、我になく謙虚な気持ちになって、世田谷美術館を歩いたのだが、これもまたひとつの発見ではあったようだ。

オルセーのアール・ヌーヴォー会場は全体を19世紀の貴族、富豪ブルジョワジーの邸宅を模した構成になっており、入り口から、サロン、ダイニングルーム、ビューロー書斎、貴婦人の部屋と続き、それにエクトル・ギマールのコーナー、サラ・ベルナールのコーナーなどが配されている。それぞれに、それぞれ実際に置かれていた家具、調度品、美術品が飾られていて、当時の貴顕の暮らしぶりがわかるようになっている。

装飾過多ともいえる家具、それだけでも完成された美術品たりうるエミール・ガレ、エクトル・ギマールのランプ、シャンデリア、噴水。

チェコからの亡命芸術家ミシャの手による大女優サラ・ベルナールの大きな舞台ポスターも、「ミシャ展」などで集中的に鑑賞してきたものだ。わが朋輩、羽仁未紗の名もこの画家からとったのではなかったか。

オルセーのアール・ヌーヴォーアール・ヌーヴォーといっても、ガラス器ならガラス器だけ、ランプならランプだけ、ミシャならミシャだけといったセクト的な鑑賞しかしていなかった私にとって、こうしてあらゆる角度からアール・ヌーヴォーに迫る展示法に接すると、それが雑多であるだけに新鮮な驚きを抱かざるをえない。19世紀を体現させられた、といっても過言ではないだろう。

だが、それにしてもやはり思う。この展示品、美術品の数々は、本当にオルセー美術館から運んできたものなのか。どう頭を絞ってみても、このような展示室は記憶にないのだ。これほどのものがあったら、忘れるはずがない。

そこでひとつの仮説に至る。

この「オルセーのアール・ヌーヴォー」は、オルセー美術館が所蔵、展示している、という意味ではなく、パリのセーヌ左岸の鉄道駅跡にその建物を改装してオルセー美術館なるものが造られた19世紀のあの時代、パリにあふれていた美術、芸術たちを一堂に集めたというものではないだろうか。“オルセー美術館時代のパリ”と題すればより的確ではなかったか。

そう考えてみれば、私にとっても懐かしいポルト・ドーフィーヌのメトロ駅の階段入り口や街灯の写真なども説明がつく。これは絶対にオルセーにはなかった。

こう思うようになって、私はようやく雑念なく“オルセー美術館時代のパリ”に入り込んでいくことができた。

 

だが、充分に満足したのちにも、私の中にはまだしつこくある疑問が残っていた。

オルセーのアール・ヌーヴォーアール・ヌーヴォーを純粋に芸術、あるいは芸術運動としてしまっていいのだろうか。19世紀という時代を考えれば考えるほど、この疑問は深まる。

それまでの貴族社会と庶民社会、さらに農民、漁民など、社会格差、身分格差が厳然としていた時代から、大革命、1次、2次共和制、帝政時代、コンミューンなどを経て、市民社会の台頭とともにフランスは急速に近代化してきた。

近代化は商業主義による変革でもある。

その先鞭を切ったのが世界に先駆けて行われた数回のパリ万国博覧会。

万博は、急に金持ちになった庶民、市民の消費願望を激しく刺激し、世は一気に消費社会へと雪崩を打った。

そうした世相に沿うようにして生まれたのがアール・ヌーヴォーだった。

本来なら“卑しい身分“の市民が、金は余るほどあるのだから、昔の貴族のような暮らしをしてもいいじゃないか、と思うとき、アール・ヌーヴォーの装飾過多な椅子やテーブル、象牙細工の花入れや扇子をわが家に飾り、手に持って馬車に乗る。

庶民、市民のエネルギーの爆発ということからいえば、アール・ヌーヴォーはパリ大革命にも匹敵する歴史的な大事件ではなかったのか。

それだからこそ、人心が平静を取り戻し、過剰を嫌うようになってくるや、アール・ヌーヴォーは火を消したように急速に廃れ、忘れ去られていったのではないか。

 

数日後、私はパリの街角に立っているだろうが、そのときパリの町にアール・ヌーヴォーを求めてうろつく自分の姿が目に浮かぶ。

過ぎ去ったもの、滅び去ったものは、いつだって美しい。

 

オルセーのアール・ヌーヴォー

 

 

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