佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 25   

からっぽ『フィガロ』怪我の功名

なにもなかった。まるっきりの空っぽ。

これまで数え切れないほどの舞台を見てきたが、これほど徹底してなーんにもない舞台は、多分初めてではなかったろうか。オペラや芝居ではなく講演会でももう少しないかはある。水差しが乗ったテーブルがあったり、マイクスタンドがあったり。

それがなにひとつ見当たらない。いや、よく見ると、広い舞台の右の隅に、舞台装置というより、だれかがしまい忘れたかのように寂しげこっそりと隠れるように小さな椅子が置かれていたが、ただそれだけ。

もうオペラは始まっている。舞台の前、本来ならそこに客席が並ぶべきところを、数列椅子を外して十数人のこじんまりしたオーケストラが陣取って、いまオペラの最初の音楽を流している。ここにオケを出したんでは、楽器音が歌声を喰ってしまうだろうな。むしろヨーロッパではよくやるように、舞台奥にオケを並べるほうがよかったのではないか。舞台は充分に広いのだから。

そして肝心の舞台上には、ひと組の若い男女が出ており、男性のほうは舞台を這いまわるような、ふき掃除でもしているかのような不思議な動きをしている。もしオーケストラによる音楽がなかったら、この男女は舞台設営のスタッフか、あるいは手伝いにやってきたアルバイト学生にしか見えなかったろう。

この段階で、私は早くも後悔していた。やはり来るんじゃなかった。

 

からっぽ『フィガロ』怪我の功名東陽町駅近く、区役所の裏手にある江東区文化センター。区が運営するいわゆるハコモノ施設で、ここでなんとモーツアルトの名作オペラ『フィガロの結婚』が上演されている。「日独交流音楽協会ベルリン本部後援」ともっともらしい肩書がつけられているが、要するに二期会、藤原歌劇団、日本オペラ振興会などに所属する新人歌手、無名歌手、それに演奏家などの寄り合い所帯での自主公演。持ちだしの舞台。

客といっても仲間内か、親兄弟、近所のおじさんおばさんくらいしか来ないだろうから、どんなに頑張ったところでわかってくれるひとは少ないはずだ。頼み込んでチケットを買ってもらっているか、自分の出費で来てもらっている数も多いだろうから、当然金はない。舞台が悲しいまでも殺風景なのも致し方ないともいえる。

期待はできそうもない。ここでは4幕のオペラをふたつに分けてふた幕物として上演するようだから、中休みにこっそり帰ってしまおう。そう思った。

からっぽ『フィガロ』怪我の功名なぜこのような舞台に私がやってきたかといえば、つい3週間ほど前に、ここと同じように練馬区が運営する大泉学園駅前の“あめりあホール”なるところで行われた“コンツェルト・キルシュ”つまり二期会の51期生の集まりによる自主公演、『リストランテ・ダモーレ』なる舞台を見て、いろいろ不満はあったものの若い芸術家たちのひたむき、ひたすらな姿に妙に心打たれ、同じようなこのオペラも、と思ったからだ。

だが、やっぱり。

大泉学園の舞台もなにもなかったが、それの倍近くの広さを持つここは、それだけがらんどう、むなしさが目立つ。

そして舞台上の男女は、スタッフでもアルバイト学生でもなく、れっきとしたオペラ歌手、しかも主役級のふたりだった。男性は、タイトルにもなっている、宮廷のなんでも屋で床屋でもあるフィガロ別府真也。女性のほうはそのフィガロとの結婚を控えた小間使いスザンナ。いまフィガロが這いずりまわっているのは、自分たちの新居に入れる家具のための床の寸法をメジャーテープ巻き尺で計っているからで、スザンナはそれを眺めながら能天気に幸せを歌っている、というより、好色な雇い主アルマヴィーヴァ伯爵が自分の初夜権を主張して迫ってくることに困っている、というシーン。

ところがこのふたり、どう見ても宮廷の使用人には見えない。白いワイシャツの黒ズボンのフィガロは、田舎出のまじめな学生といった印象だし、白い平凡なワンピース姿のスザンナは、その清楚な要望から、これまた可哀そうな酒井紀子のりピーに見えてしまう、といったら褒めているのかな。

こうして白けた思いで眺めていたが、舞台は無関係に進んでいく。

からっぽ『フィガロ』怪我の功名アルマヴィーヴァ伯爵夫人ロジーナ小山由梨子とそのお遊び相手、火遊び相手、小姓のケルビーナ岡千夏は約束通り男役のメゾソプラノ。自分はセザンヌに迫りながらも妻の浮気は許せない身勝手で好色なアルマヴィーヴァ伯爵和下田大典(わげただいすけ)と次々の主役級が顔をそろえ、お話も目まぐるしく展開するが、歌手たちと役柄の違和感、ミスマッチ感は否めない。

スケベで厚かましく、それでいてとんまなところもあるアルマヴィーヴァ伯爵は、貴族風の上着ジャケットは誂えきれなかったのだろう、一応レースつきではあるが白いシャツの黒ズボン。でっぷりと脂ぎっていればぴったりなのに、不思議に爽やかな現代青年で、そうだな、「キターッ」と叫ぶ織田祐二かと思ったよ。

伯爵夫人も長身スリム、小顔の美女でそのためかえってモデル風。妖艶なコンテッサには遠く及ばず。このメンバーに『フィガロ』はやはり無理なんではないか、との思いは強まるばかりではあったが、ケルビーナ、この小姓役のメゾが私の気分を変えた。

からっぽ『フィガロ』怪我の功名岡千夏。歌を聴いてはっとした。「恋とはどんなものかしら」。この名曲は、大泉学園でも聴いた。レストランのソムリエが突然歌い始めたもので、オペラの名曲の数々をオリジナルコメディのシーンに合わせて取ってつけたように歌うその構成はともかくとして、確かな発声法と、いかにもいたずら小姓風な歌唱が印象に残っていた。あの子ではないか。あの子が3週間のちにこの舞台で同じ歌を歌っている。

ケルビーナ岡千夏への思いがけない親近感。親戚の子に出会ったような懐かしさ。こんなところで頑張っているんだ、といった妙な嬉しさ。そんな思いが私の心を動かしたのか、不思議なことに私はどんどん舞台に吸い込まれていくではないか。

中1回の休憩時間もロビーの自動販売機で缶コーヒーなどを飲んで過ごして、再び客席に戻っていた。

 

『フィガロ』は面白くなってきた。歌手たちも素敵になってきた。

からっぽ『フィガロ』怪我の功名学生アルバイトのフィガロも、のりピーのスザンナも、「きたーっ」の伯爵も、その不似合いぶりは、若いひとばかりの貧しい劇団にとってどうしようもない宿命のようなもので、「それをいっちゃおしめぇよ」の話だ。似合うかに合わないかではなく、それぞれがいかに役になりきっているかの問題だろう。

モデル風でそぐわなかった伯爵夫人も、意外にもよく伸びる、可憐ともいえるソプラノが、そのうち伯爵夫人の高貴な育ち、浮気心も含めて少女のような無垢な心を表現しているかに聴こえ、その美貌と相まってぴったりはまり役とさえ思えてきた。この小山由梨子、うまく伸びれば大きく羽ばたくだろう。二期会がいかに育てていくかだが。

このように、初めのうちはとてもじゃないがついていけないとさえ感じた舞台に、なぜ強く心惹かれるようになったか。

岡千夏への懐かしさもあったかもしれないが、それよりも、何度もいったような、この舞台の“なにもなさ”がよかったのではないだろうか。

舞台にはほんとうになにもない。進行によってたったひとつの椅子がふたつになるくらいで、まったくの空きスペースといっていい。

その広い舞台の奥には、一面に大きなスクリーン。初めは白い壁のままかと思っていたが、それが刻々と色合いを変え、あるいは白く、あるいは薄赤く、あるいは寂しげな水色へと背景を変えていく。

そのゼロともいえる背景の前で、先ほどからいっているようなリアリティのない歌手たちが歌い、演じている。つまり舞台全体、オペラそのものに実態が感じられないのだ。それがよかった。

からっぽ『フィガロ』怪我の功名『フィガロ』のような、だれもが知っている、何度となく観ている、聴いているオペラには、このようななにもない舞台がいい。客たちはその空っぽの空間に思い思いの舞台を描く。それがメトロポリタン歌劇場であるか、ミラノはスカラ座であるか、あるいは上野の文化会館であるか。客のひとりひとりが、自分なりの『フィガロ』を浮かび上がらせていくことができる。

塗り絵のようなもの、といえばいいのだろうか。下地の線は引かれてはいても、色を付けたのは自分だといった参加意識、満足感。それを持たせてくれる。

要は、それを持つことができる客がどれほどいたかの問題だが、そこまで考えて演出したとしたら、演出の奥村啓吾、なかなかやるな。

若者ばかりのオペラはこうあるべきだ。これでいい。これがいい。 思いもよらぬ満足感に浸って帰るとき、入り口で見送っていた岡千夏に挨拶された。

私は誰に対してもめったに口にすることのない、そして自分にもいわれたくない言葉を発していた。

「がんばって」

 

からっぽ『フィガロ』怪我の功名

 

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