佐山 透(さやま とおる)ドットコム

WEEKENDLESS II - 23   

ゴーギャンの終点

「ゴーギャン展」に行ってきた。竹橋の東京国立近代美術館。

9月23日までなので閉展間際にあわてて駆け付けた感じだが、実はそうではない。7月頭のオープン間際に一度訪れてはいる。ところがそのときはうっかり近代美術館に駐車場がないことを忘れて車で出かけ、近くの駐車場をうろついた揚句、結局あきらめて帰ったかどこかよそに出かけたかしたはずだ。

ゴーギャンの終点それから2カ月余り、再度訪れるチャンスは幾度となくあったし、忘れていたわけでもなかったが、いまひとつモチベーションが湧かないというか、そのうち出かけるだろう、もし行きそびれて終わってしまっていたら、それはそれで仕方がない、といった消極的な気分でもあったのだ。

ゴーギャンの絵は、これまでにパリのオルセー美術館はじめ、世界各地で、そして日本のいくつかの美術館でも数多く観ていて、いまさら新しい発見もないだろうし、その期待も持てない。つまりゴーギャンに対してそれほど熱心ではなかったともいえる。その理由はなんとなくわかっているつもりだが、自分でそのわけには触れたくない。心の奥にそっとしまっておいて、忘れたふりをしていたい。そんな思いもあったのだ。

だがともかく「ゴーギャン展」。

ゴーギャンの終点前回に懲りたので、この日はバスで東京駅まで出て、八重洲日本橋口からのシャトルバスで近代美術館に向かった。このシャトルバスは、「ゴーギャン展」の期間中だけ運行されるそうだ。それだけこの催しに多くの観客が押し掛けていることになる。

と思っていたのに、案外すんなり、長く並ばされるでもなく会場に入ることができた。

会場を埋め尽くしているのは53点の絵。中年になってから絵画に目覚めたゴーギャンなので作品数は極端に少ない。半数近くが「ノアノア』連作といって版画作品。しかもひとつの版木から2、3枚刷っているので同じものが並んでいる。しかし、これでもゴーギャンの全作品といってもいいようで、ゴーギャンだけで大掛かりな展覧会を開こうとしたキュレーターの苦労がまざまざと感じられる。ドイツのシュツットガルト美術館やロシアのプーシキン美術館、あるいは岐阜県、岡山の倉敷といったあたりからも手広く集めている。そう思うと、もう知っているから、と敬遠していたことにいささか忸怩たる気分でもあった。

“第1章”としては「野生の解放」と題されて、徴税吏として恵まれた暮らしをしていたゴーギャンが内なる魂の呼び声に誘われるように美術の道に迷い込み、すべてを捨てて苦難の人生を歩むようになってからの約10年間の作品群。

ゴーギャンの終点フランス北部ブルターニュの貧しい農村、自然風景を描いたものや、翻って南仏はアルルの明るくのどかな光景を歌うように描いた作品が続く。

しかしそこには、のちのゴーギャンを感じるものはほとんどない。彼自身の経歴でも明らかなように、印象派の開祖ともいうべきシスレー、モネの影響を色濃く受けた作品。というより、絵とは、美術とはこんなものだ、といった思い込みから、ひたむきにそうした先達のエピゴーネンに徹していた時代といえよう。だからこの時期の作品にゴーギャン以外のひとの作者名が付されていても不思議ではない。気がつかないひとも多いのではないだろうか。

ゴーギャンの終点だが、私見だが、ゴーギャンはこのころのまま過ごしていればよかったのではないか。芸術という魔物にとらわれることなく、そこそこには売れる絵を、気分よく描いて、そのまま年をとっていけばよかった。

芸術という病い、狂気に触れ、その坂道を転がり落ちてしまったその姿は、“第2章”「タヒチへ」に集約される。

ゴーギャンの終点シスレーやモネの真似をしているうちはよかった。ゴーギャンに道を誤らせたのは、ゴッホとの出会いだったろう。絶えず狂気をはらんでいるゴッホと気脈を通じ、影響し合い、否定し合いしているうちに、ゴーギャンの心にすっぽりと開いた空洞。それを埋めるため、あるいはもっと深くおのれを傷つけるために、ゴーギャンは南の島タヒチへと逃げた。

タヒチでの日々、原住民との触れ合い、原始宗教にも似た南の島民たちの心のつぶやきを聴き、それをまるで夢の中の眺めのような絵にしていった。

印象派の新人としてのゴーギャンは完全に姿を消し、彼としては自分なりの新たな精神世界を作り上げたと思ったのだろう。これで世界の美術を変える、そう勢い込んで勇躍パリに戻るが、この芸術の都でゴーギャンを待っていたのは、あまりにも冷たい無視であった。否定でも酷評でもない“無視”。

ゴーギャンの終点激しく傷ついた心を、ゴーギャンは再びタヒチへと運ぶ。版画連作「ノアノア」に続く“第3章”「漂泊のさだめ」では、ほとんど宗教画。旧約聖書の世界ともいえるタヒチの群衆画が並ぶ。

その代表的な作品、ゴーギャンのすべてが集約されているといわれる大作が、

 

『我々はどこから来たのか

我々は何者か

我々はどこへ行くのか』

と長い題名の付いた有名な横長の油彩。

ゴーギャンの終点この大作を、私は確かボストン美術館で観た覚えがあるが、そのときの音声 ガイドではなにやら聞き取りにくい言葉のあと、この記憶も正確ではないが、

    Where do we come from?

    What are we?

    Where we go?  

だったかな、そんな意味の英訳をいった。  

だから私は、その原題は、ほかの作品同様タヒチの言葉だと思い込んでい たのだが、ここ近代美術館でじっくりと前に立って眺めてその間違いを知った。  

この大きな絵の左上隅に、こう書かれているではないか。

    Dov Venons Nous

    Que Sommes Nous

    Qu Allons Nous  

スペルの間違いか、あの時代はこう書いたのか、

    われわれはどこから来たのか      

    われわれは誰なのか  

    われわれはどこに行くのか  

フランス語であった。  

ゴーギャンは、いまでいう“自分探し”に疲れ果てていた。自分を探すこと に疲れ果てたその先に待つのは“死”のみ。  

 

2時間半か3時間、「ゴーギャン展」に縛られていた私は、すっかり疲れ果て、 バス乗り場へと歩きながら、つぶやいていた。

やっぱり来なければよかった。

そのとき私は、やはりあるひとを、あるできごとを思い出していた。忘れよ うとしていたこと、忘れたつもりでいたことを。

 

50年近く前。私は20歳か21歳。学生だった。

学生でありながら駆け出しの作家であり、学校とテニスと物書きとの3つで のびのびと生きていた。注文は少なくとも、自分では期待の新人作家のつもり だったし、同じような仲間も揃っていた。

仲間といってもほかのみんなは私よりいくつも年上だったが、誰もが自分こ そ期待の主だと自負し、上下の区別なく、週に一度、月に一度は集まって、コ ―のお代わりを繰り返しながら語り合っていた。

リーダー的なひとは、最年長の三谷茉沙夫。10年ほど年長だったか。のち に自分が勤めていた銀行を舞台にした経済小説で当て、さらに王朝歴史ものへ と転身し、夭逝した山田智彦。私のあと追うようにジュニア小説の世界に入っ てきた辻美砂子。あと大月敏正もいたし、大前ひろしもいた。やがて文壇から 消えていった仲間もいた。  

Kもそんな仲間のひとりだったが、彼ひとりだけ異質だった。浮いていた。

三重の田舎から上京してきたものの学校には行かず、親からのわずかな仕送りだけで、3畳一間で原稿用紙に向かってばかり。といって新しいものを書くわけではなく、なん年か前のひとつの作品を直したり書き加えたりするだけ。いつも思い詰めたような暗い目をしていて、無神経な私などは陰で、ダークネスK、などと呼んで笑っていた。

Kにしてみれば、われわれの、というより自分以外の連中の、こうしたノーカンぶり、明るさ、屈託のなさ、もっといえば育ちの良さというか、きらきらした才気、コンプレックスのなさが、耐えられなかったのかもしれない。まぶしすぎたのかもしれない。

知り合って3年ほどのち、Kは富士の裾野で、ひとり薬をあおって死んでいった。相変わらず同じ作品の原稿用紙の束を抱いていた。

 

いまKのことを、Kのあの暗い目つきを思い出す。ゴーギャンみたいなやつだったな。

Kもわれわれの仲間になんかならなければよかったのに。

ゴーギャンもシスレーやモネに出会わなければよかったのに。

 

ゴーギャンの終点

 

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